【聖書個所】
ヨハネ3:7~12
【タイトル】
「神の国に生きるクリスチャンのしるし②」
【前置】
今日は6月23日のメッセージの続きで、「神の国のクリスチャンのしるし②」として、将来死んだら入るという神の国ではなく、クリスチャンとして新しく生まれた瞬間に入る、今実在している神の国でどう生きるか?その神の国で生きるために持っていなければならないしるしや違いについて語る。聖書個所は、前回に続くヨハネ3:7~12と、ヨハネ6:63です。先ず、ヨハネ3:7~12を開こう。
【聖書個所】
ヨハネ3:7~12:「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。」
【序論】
前回を短く振り返る。ある時、イエス様の所にユダヤ人の指導者でニコデモと言う人が来た。彼は祭司でもなく律法学者でもないが、パリサイ人としてモーセの律法を人々に教えていた。彼は他のユダヤ人、特にパリサイ人や律法学者、祭司たちとは違い、イエス様を自分たちの存在を脅かす厄介者として見るのではなく、特別な存在として認め、イエス様の所にやって来てこう言った。ヨハネ3:2:「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」と。そして、この言葉に続くイエス様との問答から、先ず「人は、新しく(上から:アノーセン)生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。また、人は水と御霊によって生まれなければ神の国に入ることが出来ない。」ということについて、そして私たちについて言うならば、「私たちはもう新しく生まれたので、私たちは神の国を見ている、神の国に生きている」ということと、そのことを本当に知らなければならないということを学んだ。そして、その「本当に知っている」ということ、それが神の国に生きるクリスチャンの第一のしるしであると学んだ。
今日はその続きとして、知っているということだけではなく、実際にどのようにして行けば、この世において神の国に生きて行けるのか?!その神の国に生きて行くための必要十分条件について学んで行きたい。
【本論】
前回見たように、ニコデモはイエス様の言葉を聞いても理解することが出来なかった。「どうしてそんなことがあろうか?」と不思議に思ったのである。なので、イエス様はニコデモに、Ⅴ7:「あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」と言った。そして、Ⅴ8:「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」と、新しく生まれること、御霊によって生まれることを、風に例えて話された。それは、風は目には見えないが、音や周りの動きで、そこに風が吹いたことが分かる。それがしるしとなっているわけである。なのでイエス様は、水と御霊によって新しく生まれて神の国に生きるということは、それと同じように、神の国は見えないが、私たちが生きていることが神の国がそこにあるしるしなのだ、と言ったのです。それでもニコデモはイエス様に、Ⅴ9:「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」言い換えるなら、「そんなことは信じられない。」と言ったのです。
そうするとイエス様は、彼に次のように答えた。そのイエス様の彼への答えの中に、神の国に生きるクリスチャンとして持っていなければならないしるしが明らかにされている。
V10~V12:「イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。」
先ず、神の国に生きる者としての霊的理解力、知恵、知識を持つことがしるしであるということ。それはこの世の知恵や知識、理解力ではない。ニコデモはこの世に関することから言ったら、かなりの知恵や知識、理解力を持った、この世の基準から言えば立派な教師だっただろう。しかし、彼は神の国に生きる者としての知恵も知識も霊的理解力も、何も持っていなかった。何故なら、彼はまだこの世に生まれていただけで、新しく生まれていなかった、御霊によって生まれていなかったからです。しかし、私たちはもう新しく生まれて神の国に生きる者となっているので、そこで生きるに必要な上からの霊的理解力、知恵、知識を持たなければならないのです。丁度、日本と言う国で生まれた私たちが日本の国の言葉を覚え、日本で生きるために必要なさまざまなことを学ばなければならないように。
パウロはそのことをエペソの教会に書き送っている。
エペソ1:17~19:「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目(霊の目)がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」
御霊の働きにより、神の偉大さ、その栄光、その力を知ることが出来るように、また、その神の御霊の働きにより、自分自身についても知ることが出来るようにと書き送っている。つまり、神の国についての霊的理解力、知恵、知識を持ち、それに富んでいるようにと書き送っているのである。
では、それは具体的にはどうすればそれが叶うだろうか?―それが、前回お伝えしたヨハネ6:63にあるみことばである。
ヨハネ6:63:「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」
ここに2つの鍵、しるしを見る。
①「いのち(=クリスチャンとして、神の国で生きるためのいのち)を与えるのは御霊です。」とある通り、神の御霊との交わりが必要。それは祈りによる。
マタイ26:41:「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」とあるように、祈りは御霊の働き、霊の働きである。どうしてイエス様は毎朝、毎夕祈っていたのか?それは100%人間として、御霊の満たし、導き、助けが必要だったからです。そして、その祈りの中心は、神の御心を求め、御心に従うためだった。
※祈りは、私たちのために神様に働いてもらうためのものではなく、私たちが神様のために働くためのもの。私たちの心に神様を従わせるのではなく、神様の御心に私たちの思い、考え、心を一致させるものである。これが、主が教えられた「主の祈り」の中心である。
そして、そのためには初めは時間が掛かる。しかし、忍耐強く祈り続ければ、その領域に近づく。その領域の祈りの中に入ることが出来るのです。それは、ロケットが重力圏を脱出するのと似ている。脱出するまでは重力が掛かり続けているが、重力圏に達して越えれば、あとは自由である。祈りもそう。初めの内は妨げの肉の力が働くが、御霊によって祈り続けていれば、肉の力を脱して、あとは御霊によって自由に祈ることが出来るようになるのである。そのようにして、祈りによって御霊との交わりが深められて行くのです。
②「わたしがあなたがたに話したことばは、・・・、またいのちです。」とある通り、神の言葉は私たちが神の国で生きて行くためのいのちです。だから、みことばとの交わりが必要である。
みことばが無ければ、私たちは、神の国では生きて行くことは出来ない。ちょうど、日本では日本語が仕えなければ、日本人として生きて行くことは大変。それと同様に、神の国では神の御言葉を持っていなければ、クリスチャンとして生きて行くことは出来ない。だからみことばを読もう。そしてみことばを黙想し、思い巡らすことにより、神のみことばと深く交わろう。
【結論】
私たちはこのようにして、みことばと祈りによって御霊と交わり、その御霊の働きの助けによって、神の国を生きることが出来るのである。
―祈り―
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