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2024. 7.28 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

黙示録3:14~22

【タイトル】

黙示録(11)「ラオデキヤ教会へのメッセージ」

【聖書個所】

黙示録3:14~22:「また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」

【本論】

V14:「また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。」

 ラオデキヤという町は、BC3世紀にシリヤの王アンティオコス2世によって建てられた町で、彼の奥さんであったラオディケの名に因んで付けられた。そしてこのラオデキアは、ヒエラポリスという町とコロサイの町に近い所にあり、コロサイの教会がコロサイ書の学びの時にエパフラスというコロサイ出身の人物によって開拓されたと語ったように、ラオデキヤ教会もエパフラスによって開拓されたようである。そのことが分かる聖句がある。

コロサイ4:12~13:「あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。私はあかしします。彼はあなたがたのために、またラオデキヤとヒエラポリスにいる人々のために、非常に苦労しています。」

 黙示録本文に戻る。そして、このⅤ14に、キリストの姿が紹介されている。

 「アーメンである方」の「アーメン」というのは、ヘブル語で「まことに、本当に、確かに」という意味の言葉で、今日の私たちも使うが、イスラエル人たちは礼拝の中で、「はい、そうです。」と、神に対する信仰と従順の表明のために使っていた。

ネヘミヤ8:6:「エズラが大いなる神、【主】をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、『アーメン、アーメン。』と答えてひざまずき、地にひれ伏して【主】を礼拝した。」

 つまりキリストは、私たちが、「はい、そうです。その通りです。」と言うことが出来るほど、真実な方であるということ。それは、次の「忠実」、「真実な証人」と言う言葉にもある。正にキリストは、キリストを見れば何が真実か、どういうことが真実かということが、言葉においても、行ないにおいても証しされているということである。私たちもクリスチャンとして、そのような者でありたい。

 次の「神に造られたものの根源である方」というのは、キリストは被造物であるということを言っているのではなく、父なる神、聖霊なる神と共に、三位一体なる神としてすべての被造物の根源である、造り主であるということを言っている。ヨハネはそのすべての造り主であり、すべての根源であるキリストが、ラオデキヤ教会について、ラオデキヤ教会には2つの霊的問題点があると指摘している。

(1)「行ない」または「行ないに表れている信仰」の中途半端さ。それをヨハネは、「なまぬるさ」と表現している。

V15~V16:「「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」

 信仰というのは、神と私たちとの関係。つまり、繋がっているか繋がっていないかということである。

 私の家のテレビの嵐の日の衛星放送の状態。アンテナのため、電波が繋がったり切れたり、そのために画像が途切れたり見えたりする。また、最近のテレビ放送はデジタルなので、画像は細かいピクセルに分かれていて、それがチラチラ動いて何が写っているのか分からない。そんな状態が中途半端な「なまぬるい」状態である。また、最近の家の照明灯は調光式が多い。デジタル信号で変えているわけだが、ぼんやりと明るくして行くFade Inと、段々暗くして行くFade outがあるが、中間が「なまぬるい」状態だろう。

※神は熱いか冷たいか、闇なのか光なのか、どちらかであることを求めているのである。信仰において、どうしてこの「なまぬるさ」が問題になるのか?どうして神はこの「なまぬるさ」を嫌われ、口から吐き出そうとされるのか?―それは、「なまぬるい信仰」、「なまぬるい神様との関係」は、神にとってはそれは結局繋がっていないのと変わらないものだからである。つまり、不信仰、不従順、死んだ信仰と変わらないのである。そのことを教えるイエス様が語った譬え話がある。

マタイ21:28~31c:「ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。兄は答えて『行きます。お父さん。』と言ったが、行かなかった。それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」

 この譬え話は祭司長や民の長老たちに語ったもの。どうしてこの譬え話を彼らに語ったのか?それは、

マタイ21:31d~32:「イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。』」

 祭司長や民の長老たちは一見神に忠実のように見えるが、ヨハネを神から遣わされた預言者だと信じて従うことをせず、ヨハネの下に来て悔い改めることもしなかった。つまり、見た目はあるように見えても、行いのない信仰、死んだ信仰、なまぬるい信仰ということです。

※私たちはどっちつかずの信仰ではなく、はっきりと神を信じ、神に従い、神に繋がって行く信仰を持って歩もう!

(2)霊的な目が見えていない信仰。自分の真の霊的状態が分かっていない信仰。

V17:「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」

 前の所で、信仰は神との関係で、神と繋がっているか繋がっていないかだと言ったが、何で繋がっているかというと、「神を知っているか知っていないか」で繋がっているということ。そして「知る」ということは、私たちの信仰に関して言うなら、3つの領域での「知る」ということである。詳しくは別の機会にするが、簡単に言うと、一つは、人間の持つ知的な領域、知的な段階で知るということ。つまり知識、情報を持っているかどうかということ。二つめは、ひとつめの知識、情報を実際に経験するということ。つまり、分かる、理解する、悟るということ。これは単に知性の領域だけでなく、もっと深い領域でのこと。人は知情意という魂の領域を持っているので、その領域で知ること。三つ目は霊的な領域で、「知る」ということ。それは、神のみこころに従って理解する。神の知恵によって理解するということです。

Ⅰコリント2:7~11:「私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書に書いてあるとおりです。『目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。』神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。」

 この箇所は、パウロがコリントの教会に対し、自分の宣教は人間の持つ知恵や力によって行われたものではなく、神の知恵と力によって行われたものであるという弁証をしている箇所で、これが分かることが霊的領域で「知る」ということ、神のみこころ、知恵によって理解するということである。

 今日の黙示録の箇所に帰る。キリストは、ラオデキヤの教会の問題はこの霊的知恵、霊的理解に欠けているところであると言った。それで、次のように言ったのです。

Ⅴ18:「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」

 ラオデキヤの町は、金融業と羊毛業、そして、ラオデキヤが置かれていたフルギヤ地方の名をとって「フルギヤの粉末」と呼ばれる目薬を作り、それらの産業で栄えていた。キリストはそれに関連させて、信仰に無くてはならない3つのことを語られた。①「火で精錬された金」とは、精錬された純粋な信仰(Ⅰペテロ1:7:「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」)、②「裸の恥を現さないために着る白い衣」、それは、イエス様の贖いによる完全な救いの衣。(創世記3:21:「神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」)、③「目が見えるようになるため、目に塗る目薬」、それはみことばであり、御霊の働き、キリストのこと(Ⅱコリント3:16、18:「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」)。

 そして、結論。

【結論】

V19:「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」

 神は私たちを愛するから、叱ったり懲らしめたりする。それは、私たちがこの地上でのクリスチャン生活を神の子どもとして生活し、やがて神の裁きの時にキリストに迎えられ、永遠にキリストと共に生きるためにです。永遠に生きるという意味では、キリストを信じる者も信じない者もどちらも永遠に生きる。問題はどこで永遠に生きるかである。キリストを信じる者は神の御国で永遠に生きるが、キリストを信じない者は火と硫黄の燃える池の中で永遠に生きるのです。それは永遠に続く苦しみの世界である。なので神は私たちを叱ったり懲らしめたりするのである。だから悔い改めて、神に立ち返ろう。

V20:「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 19世紀のイギリスの画家、ホルマン・ハントの「世の光」の絵は、キリストが私たちの中に世の光として入ろうとしていることを表わしている。

V21~V22:「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」

 終末の7つの教会へのメッセージの最後には、「勝利を得る者」に対する神の約束が語られている。終末の時代に生きる私たちにとって、勝利を得ることは重要。それは、最後の最後まで信仰の戦いを勇敢に戦い、勝利を勝ち得るということです。

Ⅰテモテ6:12:「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」

 キリストも人の子としてこの戦いを経験し、そして勝利を得られた。だから私たちも、最後の最後まで、父なる神とイエス様、そして御霊なる神様の助けをいただきながら、勝利を勝ち得て行こう!

―祈り―


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