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2024. 7.14 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

黙示録3:7~13

【タイトル】

黙示録(10)「フィラデルフィヤ教会へのメッセージ」

【前置】

 今日は黙示録の10回目。黙示録3:7~13より「フィラデルフィヤ教会へのメッセージ」としてみことばを取り次ぐ。

黙示録3:7~13:「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」

【本論】

V7:「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。」

 フィラデルフィアという町は、BC2世紀にペルガモン王国の王、アッタロス2世フィラデルフォスによって建てられた町。ペルガモン王国というのは、ダニエル書で学んだように、アレキサンダー大王の死によって、大王によるマケドニア帝国が3つの国、マケドニア、シリア、エジプトに分かれた後、BC262年にシリアから独立した国。その国の3代目の王であるアッタロス2世はギリシャのアテネで学問を積んだので、その記念としてアッタロスの柱廊と呼ばれている建物(スライド)をアテネの町に建てた。この柱廊は、当時アテネにあった一般的な柱廊よりも大きく、長さ115m、奥行き(幅)20mあった。写真のものは1953年~1956年、ロックフェラーによって再建されたもの。何故この柱廊の話をしたか?―今日のメッセージの結論とも関連する。

 さてこのⅤ7に、定例のようにキリストの姿が紹介されている。3つの姿で紹介されている。

①「聖なる方」:「聖」は神の本性を表わしている。それは、「唯一、他にはない、比べ得ることが出来ないほど絶対的なもの」とか、そういう意味で、「この世と隔絶されているもの」という意味合いを持っているものである。イザヤはその神の本性に触れ、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。」(イザヤ6:5)と言った。神はそのようなお方である。しかし私たちはイエス様の聖い血潮によって罪赦され、神の子とされ、聖徒とも呼ばれている者。だから、私たちはもはや自分たちのことを罪人、罪汚れた者、聖くない者として見る必要はないし、見てはいけない者です。しかし一方で、というより、だからこそ、私たちはイザヤが神の聖さに触れて言ったように、私たちも神を思う時、神の前に立つ時、それは礼拝と祈りの時だが、また、私たちには意識出来なくても、神はいつも私たちの前におられるので、私たちの信仰生活のすべての時間、すべての状況において、神を恐れつつ、神を崇め、賛美と感謝と従う心を持って生活して行きたいものである。容易ではないが、そうしたいものである。聖化は私たちの地上における永遠のテーマです。

②「真実な方」:嘘偽りのない方という意味であり、「その方がこう言われる。」とあるように、この聖書のみことばは真実な、うそ偽りのない言葉です。曇り一点もない鏡のようなもの。だから、私たちは聖書を読むとき、聖書のみことばを聞くとき、私たちがこの聖書をどう読むか、どう理解するかということ以上に、私たちが聖書のみことばによって吟味されるのです。鏡に映る姿のように試されるのです。だから、聖書を読むとき、またみことばを聞くとき、サムエルが語ったように、「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」(Ⅰサムエル3:9)という心で、みことばに向かいたいものである。

③「ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方」:「ダビデのかぎ」の「ダビデ」とは歴史上のダビデのことではなく、ダビデを予型とする終末に完成する神の国の王、つまり、主の主、王の王、主権者なるイエス・キリストのこと。だから、「彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方」の持っている「かぎをもっている方」とは、主権者なる神のこと。その方がこう言われると言う。

V8~V10:「「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」

 「だれも閉じることのできない門」とは、やがて主の再臨と共に現れる神の国に入るための門のこと。その門を、主は「あなたの前に開いておいた。」と言う。「なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。」

 この時、フィラデルフィヤの教会には二種類の人がいた。ひとりは、主の再臨まで、最後まで忠実に主のみことばを守り、何があっても主の名を否まなかった人たち。もう一方の人たちは、Ⅴ9:「見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。」とあるように、表向きは信者であるように言い、またそのように振舞うが、実はそうではない人たち。それを「サタンの会衆に属する者」と言っている。何故なら、サタンは偽る者だからです。

ヨハネ8:44:「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」

 今のこの世にも、真理に立つ者と、そうでない者がいる。それは教会の中も同じである。だからパウロは多くの書簡の中で、そのような者に注意するようにと言うのです。

Ⅰテモテ4:1~2:「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、」

 でも、神はそのような者であっても、最後の最後まで見捨てないのである。

V9b:「わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。」と。

※主は最後の最後までチャンスを与えられる。それは神が憐れみ深く、忍耐深いからである。そして、それを知って、最後の最後まで忍耐深く神のみことばを守って生きているフィラデルフィアの兄姉や、また私たちに対してこう言うのである。

V10:「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」と。

 私たちは、私たちの信仰の在り方、忍耐とか従順とか、敬虔さということを考える時、私たちは完全でなければならない、少なくとも完全に近くなければならないと考える。しかし、神の私たちに対する見方は違う。どう違うか?

V8:「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」とあるように、「少しばかりの力」でよいのである。それは、からし種ほどの信仰と同じく、量や大きさが重要なのではなく、質だからである。あるかどうかだからである。完全でなくても、神を愛する愛、神に従う心、神に従うことを喜びとする心、純粋な心があって、従って行こう、守って行こう、ついて行こう、実行して行こうという素直な信仰から来る力があれば、神は私たちが患難期に遭っても―これには議論がある。患難に合わないように携挙によって守ってくれるという患難期前、中携挙説の人や、患難期後であっても、その期間、遭わないように守ってくれる、或いは、遭っても、第一の復活によって必ず神の国に入れるようにしてくれるという議論-。しかし、どちらにしても、神は必ず守ってくれるのである。

V11:「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」

 「すぐに来る。」の「すぐ」とは時期のことではなく、行動の素早さを言う。再臨の時が来れば、主は間髪を入れずに直ぐに来るのである。だから、「あなたの冠(救いの冠、いのちの冠)をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」と言うのです。

【結論】

V12:「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。」

 ここに、「聖所の柱」が出て来た。初めに、このフィラデルフィヤの町を立てたアッタロス2世がアテネのアゴラに建てた柱廊の話をしたが、BC2世紀に建てられたその柱は、AD267年、ローマ帝国に侵入したヘルール族(後のゲルマン族の一部族)によって破壊された。しかし、神の聖所の柱は違う。神の柱は永遠に建てられた柱である。それは私たちのこと。私たちはやがて来る神の都において、滅びることなく、神と共にいつまでもいるのである。ハレルヤ!アーメン!

 そして私たちには新しい名が付けられるのである。どういう名前かは分からない。しかし、新しい名が付けられる。今日本では選択的夫婦別姓制度が論議されているが、天の御国では、私たちはキリストによって、花嫁として新しい名が付くのである。

黙示録21:2:「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」

 ハレルヤ!

V13:「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」

 主は、最後まで信仰を守り、主を愛し、主に従い通す人々には、神の都の門を開いておいてくださる。その門を閉じることの出来る者は誰もいない。この世の終わりには、私たちを揺るがすいろいろな力が働く。しかしどんなことがあろうと、いつも言うように、決して諦めることなく、最後まで主に従って行こう。主は、私たちをご自身の聖所の柱として下さり、新しい名を与えて下さるのである。

―祈り―


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