【聖書個所】
黙示録3:1~6
【タイトル】
黙示録(9)「サルデス教会へのメッセージ」
【前置】
今日も、終末を代表する7つの教会に向けてのみことばを聞こう。今日はサルデスの教会に向けてのメッセージ。この箇所から、同じ終末の時に生きている私たちへのメッセージを聞こう。
黙示録3:1~6:「また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」
【本論】
V1:「また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」
この1節に、今まで見て来た7つの教会へのメッセージのパターン通り、キリストの姿が紹介されている。それは、「神の七つの御霊、および七つの星を持つ方」と言う姿である。「神の七つの御霊」とは、1:4にあったように、「七」は完全数なので、神の完全な御霊である聖霊様ご自身のことか、神の御座の前で仕える神の七人の御使いのこと。「七つの星」とは、七つの教会に仕える御使い、或いは、その教会の霊的なかしら、牧会者のこと。しかし、キリスト御自身が教会のかしらなので、ここで描かれているキリストの姿と言うのは、完全なキリストが完全な御霊と共に、これらの七つの教会を治めておられる方であるということである。
そのキリストがサルデスの教会に対して、「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」と言っている。前回のテアテラ教会へのメッセージの中で、キリストは、黙示録2:18:「燃える炎のような目を持っている方」で、その目を持って、黙示録2:23:「人の思いと心を探る方である」と語られていたが、同じようにキリストはサルデスの教会を見て、「わたしは、あなたの行いを知っている。」と言われるのである。それは「何をしたか」という内容のことではなく、「どのような行いであるか」という、その行いの本質、動機、その行いを行なわせている人の価値観、生き方のことである。それは、「生きているとされているが、実は死んでいる。」という行い、生き方のことである。
「生きた行い、生き方」、「死んだ行い、生き方」とはどんな行ない、どんな生き方か?
ヘブル9:14:「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
この箇所は、「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は」とあるように、「罪の無い完全なキリストの血による救いにより、私たちはどう変えられるか、どう変えられたか」が語られているところ。ここに出て来る「死んだ行い」とは、だから、救われる前の「罪の行い、罪の生き方」、神が私たちを造られた目的から外れた、的外れの生き方のことを指している。
私たちは皆、キリストを信じる信仰より、そのキリストの完全な血潮によって、罪の生き方、的外れの生き方から切り離され、救われたのである。そして、その同じ血は、私たちを「生ける神に仕える者」つまり、「本来の私たちの生きる目的に相応しく生きる者」にしてくださると言うのである。
※ここに「生きた行い、生きた生き方」がどういう行い、どういう生き方であるかが明らかにされた。私たちは、救われる以前は「生ける神」にではなく、この世の神に仕え、空しく生きていた。しかし私たちはキリストの救いにより、死んだ行いから、生きた行いをする者に変えられたのである。ハレルヤ!
しかしそれにも拘わらず、サルデスの教会には、もとのように「死んだ行い」、罪の生活に戻ってしまった者たちがいたようである。だから、
V2:「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」
聖書では「眠り」は「死」を意味する。(ヨハネ11:13、Ⅰコリント15:51~52)だから、「目をさましなさい。」とは、死んだ行いから離れなさいということ。それだけでなく、「死にかけているほかの人たちを力づけなさい。」と言う。そして、「わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」と言うのである。
※神様の私たちを救われる目的は、先ず私たち一人一人が、神の御前に罪のない者として立つこと。それが神様の救いの目的であり、私たちのゴール。だから私たちは一人一人、自分の救いの完成に責任がある。私たちは主が再臨されるまで、主に対する信仰を保ち続けて行かなければならないのである。
※しかし、それだけでなく、神様が私たちを救われたのは、ただ私たち一人一人のためだけでなく、私たちすべての人が救われるためでもある。ここに、教会が置かれる理由、目的がある。
イエス様が、三度イエス様を否んだペテロに対してこう言った。
ルカ22:31~32:「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
※私たちは、共にゴールを切るまで落伍する者が無いように、互いに励まし合うためにも救われている。それが私たちの「生きた行い、生きた生き方」でもある。そのためには、どうしたら良いか?
V3:「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」
イスラエルの民は「記憶の民」だと言われている。それは、神が絶えずイスラエルの民に対し、みことばを通し、例えば、出エジプト20:2~3:「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、【主】である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」のように、神が自分たちに何をして下さったかをいつも覚え、決して忘れることが無いようにと、十戒を与え、モーセの律法を与え、割礼を施し、具体的にその出来事を象徴する祭りを守り行なうようにと、神は彼らに教えられた。
しかし、今はそうではない。神はキリストを送り、私たちの贖いをし、体の割礼ではなく、心に割礼を施し、頭ではなく、心の中に救いの恵みが御霊によっていつまでも残るようにと、新しい契約を結んで下さったのである。それが十字架の主を覚えることであり、聖餐に預かることでもある。
V4:「しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。」
「衣」とは、体の上に着るものなので、目に見えるもの。だから、これは、Ⅴ3の「行い」を表わす。だから「その衣を汚さなかった者」とは、生きた行いによって生きた人々のこと。サルデスの教会には、生きた行いによって生きた者もいたのである。私たちもそのように、「生きた行い」によって生きる者でありたい!そうすれば、
V5:「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。」
私たちはやがて、最後の審判と呼ばれる神の裁きの座に立つ。(ローマ14:10、12)その時に、最後まで信仰を捨てず、生きた行いの中に歩んだ人々の名は、いのちの書から消されることはないのである。
※「いのちの書」に名が記されるのは、クリスチャンになったら、その名がいのちの書に記されるのではなく、この世にいのちが与えられた瞬間に、その名はいのちの書に記される。消されるのは、そのいのちが与えられている間に、主の御名が宣べ伝えられているのにも拘わらず、最後までその名を信じなかった人が、その書から名が消されるのである。主は一人でも滅びることを望まないからである。
詩篇69:28:「彼らがいのちの書から消し去られ、正しい者と並べて、書きしるされることがありませんように。」
ダビデの苦しみの中での祈り。ダビデは神に、「自分に苦しみを与える者の名を、いのちの書から消し去ってください。」と祈っている。つまり、そのような邪悪な者でもいのちの書に記されているということは、生まれた時に記されたと考えるのが自然だろう。また、
ルカ10:20:「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」
この時弟子たちは、まだクリスチャンではない。イエス様を本当の意味で救い主として信じた訳ではない。それはペンテコステ以降である。この「書き記されている。」は、継続状態を示している。つまり、生まれた時に、その名がいのちの書に記されたということである。
審判の場では、最後まで「生きた行い」によって歩んで来た人は、いのちの書からその名が消されることなく、白衣を着せられる者です。また、審判の場で主は、勝利を得る者について、V5:「…。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。」と言う。主は審判の場で、勝利を得る者の名を一人一人呼んで、こう言うのである。「この人は〇〇です。この人は、私の名で呼ばれることを恥じることなく、最後まで忠実に歩んで来た者たちです。」と。或いはまた、卒業式で一人一人名前が呼ばれて、神である学長から卒業証書を勝利の冠のように授けられる者のようでもある。イエス様はかつて弟子たちにこう言われた。
マルコ8:38:「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」
だから、勝利を得る者には、主がその者の名を呼び、神の前で言い表して下さるのです。
【結論】
その審判の主はやがて来られる。しかし、その時がいつかは誰も分からない。
V3:「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」
だから、私たちは主がいつ来られても良いように、主が私たちのためにどれほど大きなことをして下さったかを忘れず、罪を犯したならば悔い改め、最後まで、どんな迫害や困難があっても、クリスチャンと呼ばれること、イエス様の御名を信じることを恥じることなく、生きた行いをもって、生きた信仰を持って、イエス様と共に歩んで行こう!
V5:「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。」
ー祈り―
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