top of page

2024. 6.30 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

ダニエル12:5~13

【タイトル】

ダニエル書(24)「終末預言の結び―思慮深い人々②」

【前置】

 6月16日に続き、ダニエル12:5~13より、ダニエルに与えられた終末預言の結びとして「思慮深い人々」の2回目を語る。これで、ダニエル書の講解説教は完結する。早速、みことばを開こう。

ダニエル12:5~13:「私、ダニエルが見ていると、見よ、ふたりの人が立っていて、ひとりは川のこちら岸に、ほかのひとりは川の向こう岸にいた。それで私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人に言った。『この不思議なことは、いつになって終わるのですか。』すると私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人が語るのを聞いた。彼は、その右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方をさして誓って言った。『それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。』私はこれを聞いたが、悟ることができなかった。そこで、私は尋ねた。『わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう。』彼は言った。ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行い、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」

【本論】

V5:「私、ダニエルが見ていると、見よ、ふたりの人が立っていて、ひとりは川のこちら岸に、ほかのひとりは川の向こう岸にいた。」

 ダニエルは終末預言の幻の中である川の幻を見、その川の両側に一人ずつ人が立っているのを見た。何故川の幻を見たのか、それは、実際にダニエルが10章以降の終末預言の幻を見た時、彼がヒデケルと呼ばれる川の川岸にいたためだったのかもしれない。そして、その人たちとは誰か?―恐らく御使いたちであったろうと思われる。しかし、重要なことはその後のことである。

V6:「それで私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人に言った。『この不思議なことは、いつになって終わるのですか。』」

 「亜麻布の衣を着た人」とは、ダニエル10:5~6でダニエルがそのヒデケルという川の岸にいた時に見た幻の人のことで、受肉前のキリスト、神御自身であった。ダニエル10:5~6をもう一度見てみよう。

ダニエル10:5~6:「私が目を上げて、見ると、そこに、ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めていた。そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがき上げた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。」

 この受肉前のキリスト、神の姿の描写は、エゼキエルがエゼキエル9章で、また黙示録を残したヨハネが黙示録1章、2章で終末預言として見た幻の中にも描かれている。黙示録1章と2章の箇所については、私たちは既に読んでいるので分かると思うが、エゼキエルの見た幻については、後で確認して見て下さい。そして、「そのことばの声は群集の声のようであった。」と言う。これも、神御自身の姿、声を形容する表現である。やはりその声についてはエゼキエル書に出て来る。その箇所だけ少し開いて見てみよう。

エゼキエル1:24:「彼らが進むとき、私は彼らの翼の音を聞いた。それは大水のとどろきのようであり、全能者の声のようであった。それは陣営の騒音のような大きな音で、彼らが立ち止まるときには、その翼を垂れた。」

 彼らとは、エゼキエルが見た人の姿をした4つの生き物のことであり、この箇所では、彼らの上には主の臨在があることが記されている。今日はダニエル書を読んでいるのでこれ以上エゼキエル書については触れないが、関心のある方はエゼキエル書の方も読んでみて下さい。私たちは神様の声はか細い声だと聞いているが、視覚的に現れる時にはそうではないようである。例えば、イスラエルの民がエジプトを出て49日目、シナイ山の上に主が現われた時、山の上には雷と稲妻が響いていたと言う。(出エジ19:16)また、ヨハネ12:29では、神様の声は雷のようであったと記されている。

 いずれにしてもダニエルが主の幻を見、またその声を聞いた時、その声は群集のような、大水の轟のような、雷のような声だった。その声がダニエルの問い掛け「この不思議なことは、いつになって終わるのですか。」に対して答えられた。「この不思議なこと」とは、ダニエルが見たアンティオコス・エピファーネスが反キリストの象徴として現れ、最後には滅ぼされるという幻(ダニエル11:36~11:45)のこと。

V7:「すると私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人が語るのを聞いた。彼は、その右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方をさして誓って言った。『それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。』」

 「ひと時とふた時と半時」とは3年半を示す。今まで、終末の時の患難期という期間は7年間であり、その前半の3年半は、反キリストが自分の正体を現わさず、キリストのように平和の君のように振舞う期間であったと学んだ。しかしその期間が過ぎると、アンティオコス・エピファーネスのように、反キリストは神殿の中に立ち、神殿を汚し、自分を拝めと神のように振舞うようになり、その間、自分に従わない者に対してはさまざまな災いをもって迫害を加えるということであった。それが、「聖なる民の勢力を打ち砕くこと」ということである。その様子については、黙示録の学びの中で詳しく見て行こう。

 そして、そのような反キリストによる神の民への迫害の期間の3年半が終わると、「これらすべてのことが成就する。」とある。「これらすべてのこと」とは、前回のメッセージにあったように、主イエス様の王の王、裁き主としての再臨による反キリストに対する裁きのこと。それは、黙示録19:19~20に記されている。

黙示録19:19~20:「また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。」

 ここの「獣」は反キリストのこと。「獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。」の戦いとは、黙示録16:12~16でハルマゲドンという所に、サタンや反キリストや偽預言者たちによって地上の王たちを集められ、そして、神との戦いをする戦いのこと。所謂「ハルマゲドンの戦い」のことであるが、それは、世の終わりの終末の時、イエス様の再臨のある時に起こる。そこでは、反キリストやそれに従う人々は敗北し、主が勝利を収められるのである。

 しかし、ダニエルはそのことを聞いても悟ることが出来なかったという。それは、主がダニエルに語られているように、終わりの時まで封じられているからである。

V8~V9:「私はこれを聞いたが、悟ることができなかった。そこで、私は尋ねた。『わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう。』彼は言った。ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。」

 私たちの場合もこのような終末預言でないにしろ、聖書を読んで、さまざまな出来事を体験したり、或いは夢や幻を見た時、いろいろ分からないことがあると思う。その時は、このダニエルの姿が私たちの模範になるのではないか?―分からないことがあれば、何でも主に訊ねてみよう!-主は最善の時に、最善の方法で答えて下さるから。

V10:「多くの者は、身を清め、白くし、こうして練られる。悪者どもは悪を行い、ひとりも悟る者がいない。しかし、思慮深い人々は悟る。」

 みこころが封じられている間、今日も神を尋ね求める者と、神を尋ね求めない者がいる。神を尋ね求める者は、どんなことがあろうと神を信じ従って行き、その信仰生活、試練の生活を通して白くされ、寝られて行くのです。

Ⅰペテロ1:7:「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」

※しかし、そうでない者、「悪者どもは悪を行い、ひとりも悟る者がいない。」のであり、「しかし、思慮深い人々は悟る。」のです。前回学んだように、確かに今は奥義は封がされているかもしれない。しかし、それは神を尋ね求めない者に対してであって、今は聖霊の油が注がれている時代です。神は、求める者には聖霊様を通して語って下さるのです。だから、求めよう。それが思慮深い人です。

 最後の聖句になり、また「終末預言の結び」結論の結論です。

【結論】

V11~V13:「常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」

 V11:「常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。」とは、「荒らす忌むべきもの」である反キリストが神殿で正体を現わす時。つまり、患難期後半の3年半の始まりの時です。ここでは、その終わりまでが「千二百九十日がある。」とあるが、この期間の3年半を、1月=30日で計算すると1260日で、30日多い数字になる。その理由は、恐らく迫害が長く激しく続いても耐えることが出来るようにとの、迫害、試練に対する心の備えのためであろう。 なので、Ⅴ12:「幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。」と、さらに45日多くなっている。それだけ、終わりの時を迎えるには忍耐が要るということである。しかし、耐え忍んで待つなら、神が約束して下さっている約束の地に立つことが出来るのです。それまでは、いつイエス様の再臨が来ても良いように、またいつ終わりの時が始まっても良いように、信仰によって心の備えをし、その信仰をもって最後まで歩むことの大切さが求められている。そしてそうするならば、Ⅴ13:「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」と言う。

※結論です。私たちは最後まで神の約束を信じて、信仰を失わずに歩み続けよう。そして、私たちの割り当て地、新天新地へと入り、その地に立つ幸いに預かろう。それが思慮深い者である。アーメン!

―祈り―


最新記事

すべて表示

2024.11. 3 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】 創世記14:18~23 ​ 【タイトル】 「完全な十分の一のささげもの」 ​ 【聖書個所】 創世記14:18~23 :「さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。『祝福を受けよ。アブ...

2024.10.27 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【タイトル】 黙示録(18)「ラッパの裁き①ー聖徒たちの祈りと神の裁きー」 ​ 【聖書個所】 黙示録8:1~13 :「小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。また、もうひと...

2024.10.20 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】 黙示録7:1~17 ​ 【タイトル】 黙示録(17)「患難期の信仰者の喜びは天の御国の喜び」 ​ 【聖書個所】 黙示録7:1~17 :「この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押さえ、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにして...

Comments


bottom of page