【聖書個所】
エペソ5:8
【タイトル】
「光の子どもらしく歩みなさい。」
【導入】
今日は月の最初の聖日なので、今年のテーマについてみことばを語る。今年のテーマは?―「キリストの似姿へと造り変えられて行くこと」。本当にそのことを願っているか?本当にそう願う願いや望みは、「私たちはこうなりたい」という目標、ゴールに達するためには無くてはならないもの。ちょうど、「魚が欲しいな」と、ただ頭の中で思っているだけでなく、魚のいる海や川や池に釣り針を投げ入れるようなもの。そうしなければ魚は釣れないように、願い、望みにはアクションが必要である。
ローマ10:10:「人は・・・、口で告白して救われるのです。」
一緒に宣言しよう、告白しよう。「私は、私たちはキリストの似姿への造り変えられます!」 しかし、口で告白すれば、それで十分かと言えば、それだけでは十分ではない。さらに必要なのは、疑わずに「必ずそうなる」という信仰、確信です。
ローマ10:10:「人は心に信じて義と認められ、・・・。」
※信仰、確信が必要!針を海に、川に、池に投げ込んでも、針に決して切れることのない糸が付いていなければ魚をとることは出来ないように、願い、望みには、何があっても決して切れることのない、願い、望みを保証する信仰、確信が必要なのである。
ヘブル11:1:「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあるように。では、そのような糸、確実な信仰はどこから来るのか?―「キリストについてのみことば」、聖書から来るのである。
ローマ10:17:「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とある通り。
今日もみことばから、先ほど宣言したように、私たちがキリストの似姿へと造り変えられて行くための鍵を学んで行こう
エペソ5:8:「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」
【本論】
先ず、私たちがキリストの似姿へと変えられて行くためには、
(1)私たちは光の子どもであることを知らなければならない。
光とは神、キリストのこと。光は神そのもの、キリストそのものである。
イザヤ9:2:「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」
この「大きな光」とはキリストのこと。そしてキリストが現われれば、闇は去って行く。何故なら、闇と光は共存できないし、闇は光に打ち勝つことが出来ないからである。
ヨハネ1:5:「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
また、この二つのものは水と油のように全く異なるものなので、一つになろうとしても、絶対にそうなることは出来ない。全く共存することは出来ないのである。
Ⅱコリント6:14:「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」
闇と光は根本的に違うので、一つになることは出来ない。交わることは出来ないのである。先ず、私たちはそのことを知ろう。
エペソ5:8a:「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。」
私たちはかつては暗闇であって、神、キリストである光を知らず、光の子となっていなかった。しかし、イエス・キリストを信じる信仰によって神の子になり、光の子になった。そのことを知り、そのことを認めよう!これが先ず第一番目に大切なポイント。次に、
(2)だから、「光の子どもらしく歩もう」ということ。
具体的には、
①闇の仲間になってはいけない。
エペソ5:3~7:「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者──これが偶像礼拝者です、──こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。」
これは、ただ「~してはいけない。」ということでなく、(1)で学んだように、もう私たちは光の子になったので、交わろうにも、仲間になろうとしても、もはやなれないからなのである。
※これは非常に重要な真理です。ただ単に「ねばならない」のではなく、もう私たちは新しく光の子、神の子になったので、しようとしても出来ないのである。このことは忘れてはならないことです。
また、私たちは救われると、その後やたらに罪を意識するようになる。「これは罪ではないか、あれは罪ではないか」と、無闇に罪に過敏になる。それは、私たちは救われると、聖霊様が、光である神様が私たちの内に住まわれるので、光と闇、光と罪は共存できないので、それを意識するからである。
※しかし、ここでも覚えて欲しいことは、だからと言って、私たちは無闇に罪に過敏になって、これは罪ではないか、あれは罪ではないかと、罪に対して怯えなくてよい。何故なら、私たちはもう罪のない、闇のない、罪赦された光の子、神の子だからです。よく、「クリスチャンは、罪赦された罪人です」と言われる。しかしそれは正しくない。私たちは罪赦された義人、神の子、光の子であって、罪人ではない。何故なら、私たちは救われて神の子、光の子、キリストの内にある者となったので、私たちの内には罪はなく、罪は私たちのからだの外にあるものだからです。
Ⅰコリント6:18b:「人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。」
罪は私たちの外にあるものであって、光である神が私たちの内におられて、私たちの内には暗いところはないのです。
Ⅰヨハネ1:5~7:「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」
だから、大切なことは、私たちの本質であり、私たちの内なる光を失わないことです。
ルカ11:33~36:「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入って来る人々に、その光が見えるためです。 からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」
「目」とは、その人が「どう見るか、どう考えるか」という、私たちの内なる人と外側の世界とを結ぶ窓になるもの。だから、見方、考え方により、私たちの内が暗くなるか明るくなるかを決定づける。だから、私たちの「目」は大切なのである。では、その「目」がいつも明るい状態であるためには、どうしたら良いだろうか?私たちがいつも光を保つためにはどうしたら良いか?
②光を補充し、いつも光の子として歩むことです。
光とは真理である神の言葉、キリスト、御霊なる神です。この方と交わることにより、私たちは光を保ち、ますます光輝くのである。
イエス様が復活した後、二人の弟子がエマオに向かう途中、イエス様と出会った後に語った彼らの言葉を見てみよう。そこに、キリスト、御霊なる神様、真理である神の言葉を聞いた、交わった者の姿が記されている。
ルカ24:32:「そこでふたりは話し合った。『道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。』」
詩篇119:130:「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」
みことばと祈りにより、みことばと交わり、御霊なる神様と交わることにより、私たちはますます光に満ち、キリストの満ち満ちた姿へと変えられて行くのである。
【結論】
先ず、①私たちは既に光の子になったことを覚えよう。だから、②闇の仲間にならないように、真理を知って、真理である光に、みことばに、御霊に満たされて、光の子として歩んで行こう!
―祈り―
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