【聖書個所】
マタイ28:18~20
【タイトル】
「マタイ福音書のペンテコステ・メッセージ」
マタイ28:18~20:「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
【導入】
今日はペンテコステ礼拝。ペンテコステとは五旬節、正確にはギリシャ語で「50日目」を意味する「ペンテコステ・エメラ」というが、それを一語に詰めている。ヘブル語で言うならシャブオット。何から50日目なのか?―それは過越しの小羊が屠られてから50日目のこと。また、イエス様の十字架上での死から50日目を指す。そのイエス様が復活して天に帰られる前、イエス様は弟子たちに、今日私たちが良く引用するみことば、使徒1:8:「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」と言った。これは、「使徒の働き」にあるペンテコステの中心的メッセージ。そしてこのメッセージには3つの重要な要素がある。①聖霊降臨、②私たちは力を受ける、③私たちはキリストの証人となる。この3つ。これと並び、今日の聖書個所のマタイの福音書28:18~20にも、使徒1:8と同様、3つの柱になる要素がある。
今日はこのマタイ18:18~20から、「マタイ福音書のペンテコステ・メッセージ」と題して、みことばメッセージを取り次ぐ。
【本論】
この箇所も使徒1:8と同様、3つの要素によって出来ていると言った。それは何か?―それは、使徒1:8の3つ、①聖霊降臨、②私たちは力を受ける、③キリストの証人となる、に対比するかのように、①イエス様の臨在、②イエス様の権威、力、③私たちはキリストの弟子となる。この3つである。
(1)イエス様の臨在
V18:「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」
イエス様が近づいて来る、イエス様の臨在があると、そこでは何かが起こる。中風の男の癒しの時のように、イエス様の居た家の屋根が壊されるというようなことが起きたり(マルコ2:3~12)、12年間の長血の女性の癒しが起きたり(マタイ9:20)、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と大声で叫んで、イエス様の後をついて来た二人の盲人の目が見えるようになったり(マタイ9:27)、悪霊からの解放、さまざまな癒しが起きたり、奇跡や不思議なことが起きた。
しかし今日の聖書個所には、それ以上の大きな事が起こったことが記されている。それは、使徒1:8で、「聖霊があなたがたに臨むとき、あなたがたは力を受け、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、および地の果てにまで私の証人となります。」と同じように、このあと弟子たちがキリストの弟子になって行くという大きなことが起こったからです。
イエス様は言われた。
ヨハネ14:12:「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」
イエス様の行なうわざとは、病の癒しや悪霊追い出しだけではなく、御国の福音を宣べ伝えるという福音宣教のわざだった。病の癒しや悪霊追い出しも重要であり、必要なことです。何故なら、それが御国の福音宣教に伴うからです。しかし、御国の福音宣教の最大の目的は、イエス様が弟子たちに教えられた「主の祈り」、「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行われますように。」とあるように、御国をこの地にもたらすことだからです。そのために必要なのが、キリストの証人であり、キリストの弟子なのです。そのため、イエス様は弟子たちに近づいて行かれ、Ⅴ20b:「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と、主の臨在の約束をされたのである。
ここで、この箇所のみことばメッセージの構造を説明するならば、
「主の臨在と権威」(V18、Ⅴ20)の機関車+「あなたがたは行って」(V19a)の第1車両、+「父、子、聖霊の御名によってバプテスマをさずけなさい」(V19b)の第2車両+「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」(V29a)の第3車両の連結図。
この図を頭において、次に進む。
(2)イエス様の権威(機関車の動力に当たる)
しるしや不思議の伴う福音宣教の原動力は主の力であって、私たちの力ではない。しるしや不思議が伴う福音宣教がなされているために私たちに求められているのは、この弟子作り命令への従順です。そして、それに従えば、弟子作り号は進んで行く。弟子作りは為されて行くのである。1両目の「行って」とはそういうこと、従うことである。イエス様は言われた。
ルカ14:25~33:「さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」
V33が結論!何に従うか、誰に従うか、何を、誰を第一にするかという選択と従順の話である。
ヨハネ6:27:「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
※私たちは主のみことばに従う時、主は私たちに認証を与えて下さり、権威を与え、同じ働きをさせて下さるのです。だから私たちは、永遠のいのちの実、救いの実を得るために、何があってもみことばに従って行こう!イエス様に従って行こう!
(3)私たちは弟子となり、弟子作りを行なう者となる。
よく教会では、「弟子作り」ということで、特別なクラスを設けることがある。また、どこかの教会や団体が開くセミナーに参加することがある。それはそれで意味あることだと思う。しかし、私は今までそのような場所も機会も特に設けて来なかった。それは、「弟子は、みことばを教え、みことばに従うように教えることによって作られてくる。」と、私は信じているからです。特別なプログラムや、特別な機会がそれを実現するのではなく、毎日の、毎週のみことばとの交わり、教えによって、また祈りによって、また共に教会生活、信仰生活を送ることによって、弟子は作られて来ると信じているからです。
※キリストの弟子は、みことばに従って行く時、みことばによって作られて来るのです。教会に、牧師や教師、また兄弟姉妹たちがいるのは、そのための教えや励ましのための器官、働きなのです。
主がこの弟子作り命令をされた時、何と言われたか?―2番目の車両の「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」と言われた。バプテスマとは何か?一バプテスマとは一体になること、一つになること、つまり神に従うこと。ただの洗礼式のための言葉ではない。霊的に、実際に古い自我が死に、キリストに従って行く新しい自我によって生きて行くということです。それがバプテスマ。
そして次に、3番目の車両、「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」―みことばに従って行くように教えること。―私はそのつもりで教えている。あとは皆さんがそれにどう応答するかの問題です。もし、私たち一人一人がこのみことばに従順するなら、1番目の車両のように、従って「行く」なら、私たちは皆、キリストの弟子になり、お互いに弟子となって行くのです。弟子を作るのです。
【結論】
マタイ28:18~20:「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
今日、もう一度このみことばに立ち返ろう。このみことばは私たちの信仰生活、教会生活の基本です。私たちがこうして教会生活を送るのは、私たちが、主が命じられているように、弟子となるためだからです。私たちは、この主の弟子作り命令、ペンテコステ・メッセージという主のみことば、主御自身から離れると、目に見える教会中心になってしまう。そうなると、「いかにして教会を大きくしようか」とか、いかにして「教会成長をなしとげようか」とかいう思いに縛られてしまう。教会成長は良いこと。しかし、それは結果として主が成して下さることであり、聖書は私たちに、「教会を成長させなさい」とか、「教会員を多くしろ」とか命じていない。聖書は私たちに、「…して、弟子を作りなさい。」と命じている。私たちはこのみことばに従って行こう。真剣に従って行こう。そうすれば、主はこれを実現して下さる。原動力は主にあるから。だから、そうなるように、そのために用いて下さるように祈ろう!
―祈り―
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