【聖書個所】
黙示録2:12~17
【タイトル】
黙示録(7)「ぺルガモ教会へのメッセージ」
黙示録2:12~17:「また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』」
【序論】
ぺルガモは、前回のスミルナの町の北方約70km程の所にある町で、BC4世紀頃、ここにあったペルガモン王国の首都であった町。ペルガモン王国というのは、ダニエル8章に出て来たが、マケドニアのアレキサンダー大王の死後、4つの国に分かれた時のその中の一つの国。しかし、そのペルガモンはBC133年にローマ帝国に滅ぼされてローマの属国となった。それでローマ帝国は、この所に時のローマ帝国の皇帝のための神殿を建て、皇帝礼拝をさせた。それはスミルナ教会へのメッセージの中でも語ったが、ローマ皇帝を神として、皇帝に対して「キュリオス・カイサル」と告白させる偶像礼拝のことである。V13の「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」の「サタンの王座」とはその神殿のこと。なので、スミルナの教会のクリスチャンたちがそれに屈することがなかったように、ぺルガモのクリスチャンたちも皇帝礼拝をすることがなかったので、そのために殺されたアンテパスという人物の名前を上げながら、彼らの主に対する忠実な信仰が褒められている。
V13:「「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」
ここで、再度7つの教会に対するメッセージに関し、そこに共通して表れるメッセージのパターンについて確認しておこう。先ず、①「・・・という方が言われる。」という言い方で、メッセージを語るキリストのことが紹介されている。ぺルガモの場合は、Ⅴ12である。
V12:「また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。」
キリストのことが「鋭い、両刃の剣を持つ方」として語られている。この「鋭い、両刃の剣」については、Ⅴ16で「わたしの口の剣をもって」という言葉が出て来るので、そのところで語る。そして次に、②「わたしは知っている。」という言い方で、その時のその教会が置かれている霊的な現状について触れ、それに対してその教会がどのように対応しているか、その良い点、良くない点が語られている。それが先ほどのV13、ローマ帝国による皇帝礼拝の強要に対し、それに屈することのないぺルガモ教会の主に対する忠実さのことである。もう一度Ⅴ13を見てみよう。
V13:「「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」
しかしぺルガモ教会に対しては、その良い点、褒められる点だけでなく、良くない点、非難されるべき点も語られている。それがⅤ14~V15である。そのように良い点、良くない点が語られながら、
③「・・・しなさい。」と、中心的なメッセージがⅤ16で語られ、そしてⅤ17で、④「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」と言うように、メッセージに対する挑戦、招きのメッセージが語られている。そして最後に、続けてV17で、⑤「勝利を得る者には・・・しよう。」と、その挑戦、その招きに応えた者に対する神の祝福の約束が語られている。
今日は、このぺルガモ教会に対するメッセージとして、Ⅴ14~V15の、この教会の非難されるべき点に注目し、神がぺルガモ教会に、また私たちに何を語ろうとしているのかを見て行きたい。
【本論】
V14~V15:「しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。」
先ずV15の「ニコライ派の教え」というのは、スミルナ教会の箇所でも話したが、エルサレムで始まったユダヤ人教会が、ユダヤ、サマリヤ、小トルコ地方と、異邦人の地に広がって行くことにより、異邦人が教会に増えて来たので、それまでユダヤ人クリスチャンたちが守っていたユダヤ人としての律法、それは彼らのアイデンティティーを守る伝統と言っても良いが、それを異邦人クリスチャンたちは何処まで守ればよいのかということについての混乱が起こり、BC49年に会議が開かれた。その会議の結論は、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と不品行とを避けることだったが、ニコライ派の人々は、その結論を緩めてしまうような、つまり、恵みを放縦に変えてしまうような教えをしていた。例えば、「少しぐらいはやっても大丈夫。」とか、「偶像には意味がないのだから、大丈夫。」とか。そして、「バラムの教え」というものも出て来たが、それは、「バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。」とあるように、またⅤ15、「それと同じように」とあるように、ニコライ派の教えに類するものでもあった。
この「バラムの教え」に関しては、民数記22章~25章、民数記31:16に記されている歴史上実際に起きた出来事の箇所も見た方が良いのだが、今日は時間がないので、この箇所にだけ目を留めて語って行く。つまり、バラムの教えというのは、ニコライ派の教えと同様、神の恵みを軽んじ、人をつまずかせ、人に罪を行なわせるものであった。特に、イスラエルの民、神を信じる者をつまずかせ、罪を行なわせるものであったという点に目を留めて、今日のメッセージの中心としたい。
※私たち信仰者にとり、「つまずき」或いは「つまずかせる」ということはとても重要なトピックである。しばしば教会の中や信仰者の間で、「つまずいた」とか、「つまずかせられた」とか言う言葉を聞く。「つまずく」というのは文字通り、躓いて、転んで、倒れること。私たち信仰者の場合は、つまずくことによって、教会から、神から離れること、つまり罪を犯すことを言う。では、人はどうしてつまずくのか?
聖書には、「つまずきの石、妨げの岩」という言葉が出て来る。それは、イエス・キリストを指す言葉。例えば、
ローマ9:30~33:「では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。それは、こう書かれているとおりです。『見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。』」
ここで語られていることは、文字通りイスラエル人たちは、行いによって義を得られると思い、義の律法を追い求めたが、結局その義を得られなかった。しかし異邦人たちは、信仰によって追い求めたので、義のゴールに達しえたということが語られている。その違いはどこにあったのか?―その答えは、また「人はどうしてつまずくのか」の理由でもある。それは、「つまずきの石であり、妨げの岩」であるイエス・キリストをどう見るか、「つまずきの石であり、妨げの岩」であるイエス・キリストに対してどういう態度をとるかの違いにある。そこに、人はどうしてつまずくのかの理由がある。
神はユダヤ人にも私たちにも救い主であるイエス・キリストを送られた。それが、「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。」ということ。「つまずきの石」、「妨げの岩」という2つの石や岩があるわけではない。石も岩も一つであり、一人のイエス・キリストである。問題は、そのイエス・キリストをどう見るか?イエス・キリストに対してどういう態度をとるかなのである。それにより、ある人には「つまずきの石」になり、ある人には、「妨げの岩」になる。結局、人と神との関係、私たちとキリストとの関係なのである。ユダヤ人は義を得るために、彼らに送られたイエス・キリストは不要と考え、イエス・キリストを拒んだ。そのために、彼らにとってイエス・キリストは、義に至らないつまずきの石になり、妨げの岩となった。しかし異邦人である私たちはそうではない。私たちは、信仰によるしか義に至ることは出来ないと知ったので、イエス・キリストを信じた。また、「つまずきの石」、「妨げの岩」は、ちょうど目の中のとげや梁のように、イエス・キリストを小さな石と見ると、大きな岩と見るかの違いでもある。小さな石と見れば、無視して跨いで行こうと思うだろう。しかし、大きな岩と見れば、越えることの出来ない妨げの岩になるだろう。それは結局、自分をどう見るかの違いでもある。イエス・キリストを跨いで行くことが出来る小さな石と見れば、自力に頼り、その石につまずいて、結局超えることが出来ない。しかし、「自分には越えられないと大きな岩だと思えば、自力に頼ることを諦め、神に頼る。」それが、「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」ということ。
ぺルガモの教会には、そのように神の恵みに頼らず、自力に頼り、また恵みを軽く見て、不品行を行なわせる教え、霊の力が働いていた。だから、Ⅴ16:「だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」と主は言われた。
※私たちは、自分の知恵や力でなく、神の知恵と力、神の恵みに頼り、人の言葉やこの世の教えではなく、「鋭い、両刃の剣」である神の言葉、「神の口から出る言葉」によって生きて行く者である。
V17:「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」
「隠れたマナ」とは、天からの神の言葉。いのちの言葉。そして、「白い石」とは、当時、裁判の席では、陪審員たちは被告が無罪か有罪かを決める時、石を投げて評決した。「白い石」を投げれば無罪、黒い石を投げれば有罪という風に。そして、そこに記されている「新しい名」とは、「罪赦された者、神の子、キリストの者」というように、救いを受けた者は全く新しくされた者であることを示す名である。
【決論】
天では、私たちはもはや地上の誰のものでもなく、どこそこ教会のものでもなく、皆一つの新しい名、神の子、キリストの者、新しくされた者としての名が付けられるのである。だから私たちは、その神の恵みを軽く見ることなく、神が与えて下さる神の言葉、神の知恵、神の力、神のいのちに感謝し、それによって歩んで行こう!
―祈り―
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