【聖書個所】
マルコ16:1~6
【タイトル】
「安息日が終わったので」
【前置】
ハッピー・イースター!イースターはクリスチャンにとってクリスマスと並んで喜びの日です。何故喜びの日なのか?―クリスマスは、イエスキリストが天から来られ、私たちの救いのために救い主として生まれて下さったから。イースターは、そのイエス様が十字架で死んで、3日目に死の力を打ち破ってよみがえって下さったからです。イエスキリストは私たちを罪と死の力から解放して下さった。
ハレルヤ!だから喜んでいますか?しかし、このことは私たちが勝手に考え出したことではなく、また誰か有名な人が言ったからではない。聖書にそのことが書いてあるからです。
Ⅰコリント15:1~5:「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」
パウロは、自分もそうだと言っているが、Ⅴ3:「聖書の示すとおりに」とあるように、イエス・キリストの十字架と復活のことは聖書に示されていて、それを信じるならば救われるのだということをはっきり述べている。誰かが言ったからではなく、あの本に書いてあったからではなく、インターネットにそのことがあったからでもない。「聖書にこう書いてあるから」と、私たちはこの聖書のみことばを私たちの信仰の基準として歩んで行かなければならないのである。
そのためには、みことばを読んで思い巡らし、告白し、心に植え付けて行かなければならない。みことばは神のことばであり、霊でありいのちです。また人格を持つイエス・キリストそのものでもある。だからもっとみことばを知り、もっとみことばと親しくなろう。そのためにはみことばと共に過ごす時間が必要である。みことばを読み時間を聖別しよう。あるアメリカの説教者がこう言った。「Prayerless Christian is weak Christian」(祈りのないクリスチャンは弱いクリスチャン)だと。だからその言葉を借りて言うなら、「Wordless Christian is weak Christian」(みことばのないクリスチャンは弱いクリスチャン)。だから、みことばと交わる時間を少しでも多く取ろう。
そういう意味で今日も聖書を開き、イースターのメッセージを受け取って行きたい。今日の個所は、マルコ16:1~6。この箇所から、「安息日が終わったので」というタイトルでメッセージを取り次ぐ。
【聖書個所】
マルコ16:1~6:「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」
【本論】
この箇所には二つの世界が描かれている。「私たちが生活しているこの世界のこと」と、「神の世界のこと」です。またこの箇所には2種類のわざが描かれている。「人の為すわざ」と「神の為すわざ」です。
「マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。」とある。マグダラのマリヤとは、イエス様によって7つの悪霊を追い出してもらった女性である。(ルカ8:2)。ヤコブの母マリヤとは、マルコ15:40に「小ヤコブとヨセの母マリヤ」という言葉があるが、そのマリヤのこと。「小ヤコブ」というのは、イエス様の12弟子のひとり「アルパヨの子ヤコブ」(マルコ3:18)のこと。何故彼が「小ヤコブ」と呼ばれているのか?それは、12弟子のうちで、イエス様と一緒に良く出て来る「ゼベタイの子のヤコブとヨハネ」(マルコ3:17)と区別するため。「サロメ」は、そのゼベタイの子のヤコブとヨハネの母、つまりゼベタイの奥さんのこと。彼らは安息日が終わったので、当時の人々が死者に対するこの世の習慣として行なうように、イエス様の体に油を塗りに行こうと思い、香料を買ったと言う。そして、Ⅴ2:「週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。」と言う。「週の初めの日の早朝」とは、Ⅴ1にあったように安息日が終わった翌朝のこと。今日で言う日曜の早朝のこと。ユダヤの安息日は金曜の夕刻6時から翌日土曜の夕刻6時までなので、週の初めの日というのは土曜夕刻6時から始まるが、日が落ちてしまうので、彼らは同じ日の日の上る時に行ったわけである。
そもそもどうしてそうだったのか?―それがこの世の世界と神の国の世界との違いに、また人のわざと神のわざとの違いに関わることであった。彼らは、Ⅴ1:「安息日が終わったので」動くことが出来たのです。それまでは、イエス様の体に油を塗りたいと思っても、彼らはそれが出来なかったのです。何故なら、安息日律法と呼ばれる律法解釈、イエス様はそれを「人の言い伝え」と言ったが、その「人の言い伝え、この世の習わし」に、彼らの生活が縛られていたからである。しかし「神の国の世界」ではそうではなかった。この後、彼らは何を見たのだろうか?
V3~V6:「彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」
彼らは、彼らが墓に着く時、そこに誰かが居て、イエス様の体が納められている墓の入口の大きな石をどけてくれる「だれかいるでしょうか。」と話し合っていた。彼らは人の手を借りようとしていたのである。しかし彼らが墓に着いてみると、もうその石は転がされていて、墓の入口は開いていた。どうしてか?―イエス様はよみがえられ、ご自身でその石を内側から転がされ、墓から出て来られたからである。ここに神の為されたわざが明確に示されている。そしてそれはいつ行われたか?―安息日にある。
思い出してみて下さい。イエス様は公生涯の中で何度も安息日にみわざを為された。何故?―イエス様は安息日律法と言う人の解釈による言い伝えに支配されず、本当の意味で安息日律法を守っておられ、そのわざを行なわれたからである。なので、イエス様はこう言われた。
マタイ5:17:「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」
※ここに、十字架の福音と復活の福音のメッセージがある。十字架は私たちの罪の赦しのための福音、復活は、イエス様が人の言い伝えの律法、この世の宗教に縛られることなく、むしろそれらの要求を満たし、本質的な意味で守って生きたように、罪赦された私たちもそのように生きることが出来るようにと、神が私たちに与えてくださった神の力なのです。それがイエス様の復活の力、復活の恵みである。
ローマ4:25:「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」
義というのは、法廷用語の「無罪」を示すと同時に、神との関係における「真っすぐな関係」をも示す。だからイエス様は、私たちが神との関係の中でいつもまっすぐ生きることが出来るようにと、それを確かなものとするためによみがえられたのである。だからパウロはこう言う。
ガラテヤ2:19~21:「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」そして、
ピリピ3:10~11:「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」と。
これは「何とかして、自分の力で復活したい」と言っているのではない。何故なら、私たちは皆復活するからである。このV11「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」の「復活」は、Ⅴ10の「私は、キリストとその復活の力を知り」のその「復活」とは違って、原語のギリシャ語で「エクスアナスタシス」という言葉が使われているように、誰もが死んだ後、物理的に栄光の体によみがえるという「アナスタシス」と言う「復活」ではなく、「エクシー」=「~から~に向かって、~を超えて」という意味の強調表現でもあり、また、抄訳聖書で、「出来ることなら、この肉体にありながら」と言う意味があるように、その復活の神の力に預かって生きて行きたいというパウロの熱い思いが込められた言葉なのである。だからその後、
ピリピ3:12~14:「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」と言っているのです。
※今生きているこの時、キリストの復活の恵みを無駄にすることなく、その恵みによって、最後までゴール目ざして一心に走りたいと言っているのである。
【結論】
皆さんはどうだろう?―私たちは、このパウロのように歩んで行きたいものです。それが十字架と復活の恵みによって生きる当然のクリスチャン生活ではないだろうか。アーメン!
―祈り―
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