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2024. 3. 3. 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

黙示録2:8~11

【タイトル】

黙示録(6)「スミルナ教会へのメッセージ」

【導入】

 前回は2:1~7より、「エペソ教会へのメッセージ」ということで、1世紀に存在していたエペソ教会へのメッセージを見た。しかしそれは、当時のエペソ教会という固有の教会に対するメッセージである共に、普遍的な教会、今日の私たちに対するメッセージでもあるということだった。そして、そこには決まったパターンでメッセージが語られているということも前回学んだ。そのパターンとは、

①「…という方が言われる。」という風に、メッセージを語るキリストのことが紹介されていること。

②「わたしは知っている。」という風に、その時の教会について、どのような霊的状態であったか。それに対して教会がどう対応していたか、その良い点良くない点について語っているということ。

③「…しなさい。」と、結果として伝えるべき中心的なメッセージ、それは「悔い改め」のメッセージであったり、「励まし」のメッセージであったり、その時その教会に一番必要なメッセージが語られているということ。そして最後に二つ、すべての教会に対して共通して語られているメッセージとして、

④「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」と、みことばメッセージに対する応答、挑戦、招きのメッセージが語られていると言うこと。そしてそうするならば、

⑤「勝利を得る者には…しよう。」と、その招き、挑戦に応えた者に対する神からの祝福の約束が語られているということ。

 このパターンで、主はヨハネを通して7つの教会に、また、今日の私たちに対してメッセージを語っている。ではどんなメッセージを語っているだろう?早速みことばを開きたい。

黙示録2:8~11:「また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。──しかしあなたは実際は富んでいる──またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』」

【本論】

V8:「また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。」

 この「スミルナ」という町の名前が挙げられているのは、この箇所と1:11の2ヶ所にしか出て来ない。スミルナという町は、他の町と同様、当時ローマ帝国に属する町として存在していた。前回読んだエペソの町は、今は廃墟となって、町自体は存在しないが、スミルナは現在もイズミールという名前で残っている。そしてその名前の意味は、「没薬」です。没薬というのは、イエス様の誕生(2歳)の時に、東方の博士たちによって捧げられた宝物の一つ(マタイ2:11)、また、十字架で死んだイエス様を十字架から取り降ろされた時、ニコデモがその体に塗ろうと持って来た没薬のこと(ヨハネ19:39)。新約聖書の中では、没薬としてはこの2ヶ所しか出て来ない言葉。だから、スミルナ教会は、その名前の意味において、イエス様の誕生と死に深く関わっているという点で非常に意義深いものがある。それはまた後で。

 さて、最初のメッセージのパターンである「…である方が言われる。」というイエス様に関しては、Ⅴ8:「初めであり、終わりである方」とあるように、主はすべてのすべてであるということ。「死んで、また生きた方」と言われるように、死にも打ち勝ち、すべてに打ち勝って、すべてを治める方であると言う風に証しされている。この信仰の告白は非常重要。それもこの後分かる。

 V9で、このスミルナ教会の現状について語っているが、スミルナ教会に対しては、エペソの教会に対して、Ⅴ4:「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたははじめの愛から離れてしまった。」というような、非難叱責がない。これは、この後見て行くが、3章に出て来るフィラデルフィア教会に対してもそう。避難や叱責があるのは、この二つの教会以外の5つの教会に向けてである。どうしてそうなのか?―それは、それらの教会がそのような霊的状態であったということ。だから、私たちはそこから私たちに対するメッセージを汲み取ることが出来るので、しっかりとみことばに聞いて行こう。

 さて、今日の箇所に戻るが、そのようにスミルナの教会に対しては一切非難叱責の言葉がないだけではなく、置かれている現状のことを伝えると共に、一番伝えたいと主が望んでいる、パターンの三番目の中心的なメッセージである励ましのメッセージで満ちているということなのである。

V9~V10:「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。──しかしあなたは実際は富んでいる。──またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」

 「わたしは…知っている。」という言い方で、この時スミルナの教会が置かれていた霊的状況のことが語られていた。3つの状況があった。

①「苦しみ」の中にあるという状況。これはどういう苦しみか、それは、「イエス・キリストを私の主、私の神」と告白する信仰の証しの故に受ける苦しみです。スミルナはローマ帝国に属する町だと言ったが、ローマ帝国では、ローマ市民はみなカイサル(皇帝)によって「キュリオス・カイサル」、(「キュリオス」とは「主」という意味、カイサル(シーザー)は皇帝という意味。人名ではない。)と告白することが強要されていた。しかし、クリスチャンである私たちは、「イエス・キリストは私の主、私の神」と告白する信仰なので、彼らはそれに従わないために苦しみ、迫害を受けていたのである。

 ここで使われている「苦しみ」という言葉は、ローマ5:3や、ヨハネ16:33で使われている「患難」(ギ:スリプシス)という言葉と同じ言葉。

ヨハネ16:33:「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 イエス様はここでも、「あなたがたは、世にあっては患難があります。」と言われた。それを知っていると言われたのである。そう!イエス・キリストを主と告白する者は、この世にあっては、その信仰のゆえに苦しみ、患難を受ける。これは主が「知っている」と言われることである。

 だから、もし私たちが何の苦しみも患難も、また迫害も受けていなかったら、もしかしたら私たちは「イエス・キリストは私の主、私の神です。」と、信仰の証しをしていないのかもしれない。この信仰ゆえの苦しみと葛藤については、前回のK宣教師のニュースレターにもあった通り。しかし、私たちの信仰の証しの故に、どんな苦しみや患難があったにしても、主は私たちにこのように言われる。それが、Ⅴ10の励ましのメッセージである。

V10:「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」

 「十日の間」というのは、文字通り「10日間」を意味すると同時に、「10」は完全数でもあるので、「神が定めている一定の期間」という意味でもある。この苦しみは今日もあるので、後者に近い意味の言葉だろう。でも主は私たちに、「恐れてはいけない。」、「死に至るまで忠実でありなさい。」と言うのである。「そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」と言われる。「いのちの冠」とは勝利の冠のこと。だから主は、先ほど挙げたヨハネ16:33で:「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と言われたのです。

 またパウロは、この信仰ゆえの勝利と平安、喜び、患難について次のように言っている。

ローマ5:1~5:「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

※ここに、私たちの福音を信じる信仰ゆえの本当の富、永遠の富、朽ちることのない富がある。それが、2:9:「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。──しかしあなたは実際は富んでいる。」と主が言われる「富」のことである。そして、②貧しさということである。

※私たちの信仰のゆえの富というのは、どれだけこの世において貧しく見えても、Ⅱコリント4:7~18にあるような霊的祝福、富、力、いのちが与えられているということ。これが掛け替えのない私たちの富である。アーメン!

③三番目の現状については簡単にふれる。それは、Ⅴ9:「またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられている。」ということ。1世紀の教会は、特にエルサレム、ユダヤにおいてはユダヤ人中心の教会だった。そこに、このような偽物の信者、見せかけの信者がいたのである。今日もいるだろう。私たちは目を見張っていなければならない。そして、

【結論】

V11:「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」

 ここにおいて、私たちの信仰による勝利は完全なものであり、確定したものであることが分かる。「第二の死」というのは、黙示20:6と20:14に出て来る「第二の死」、永遠の滅び、永遠の死のこと。

※私たちは最後の最後まで、どんな患難や苦しみが押し寄せて来ても、主イエス・キリストに対する信仰を最後まで守り通す。どんなことがあっても忍耐し、寛容し、愛し、希望に溢れ、喜びに溢れて生きる。これが私たちに与えられている信仰であり、信仰に伴って与えられる富、繁栄、祝福なのである。

―祈り―


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