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2024. 3.17 主日合同礼拝:金子辰己雄師

【聖書個所】

ガラテヤ3:26~27:「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」

【タイトル】

「クリスチャンの着ている衣」

【導入】

 今日は私たちの着ている衣について学ぶ。着ている衣と言っても、この着ている服のことではない。目には見えないが、手で触ることも出来ないが、衣擦れの音を聞くことも出来ないが、確かに私たちが着ている衣について。

【序論】

 パウロは、イエス・キリストを信じる信仰によって神の子どもとされ、バプテスマを受けてクリスチャンとなった私たちは、皆キリストを私たちの身に着た。つまり、キリストを私たちの身に着ていると言ったのである。

 聖書が私たちに言っていることは、「キリストを私たちの衣として着なさい。」というように、着ることを命じることでなく、「もう私たちはキリストの衣を着ているので、そのことを悟り、そのように生きて行きなさい。」ということなのである。このことは非常に重要なこと。「未だ着ていないから着なさい。」ということと、「もう着ているのでそのように生きて行きなさい。」ということとの間には大きな違いがある。

 ちょうど子供がお風呂から上がって裸のまま走り回っている時に、親が「いつまでも裸でいないで、早く着なさい。」と言うのに対し、子供の方は裸のまま走り回っているが、親が「元気だね~。(本当は昨日も入ったばかりなのに)随分大きくなったね~。よしよし。」と言って服を着せてあげる程の違いである。

 「未だ着ていないから着なさい。」というのは、「あなたは未だ駄目だから、もっと良くなりなさい。」とか、「あなたは不完全だから、早く完全になりなさい。」というように、駄目なこと、不完全さに焦点が当てられているが、「もう着ているから、そのように生きて行きなさい。」という方は、「あなたはもう完全だ。だからそのように生きて行きなさい。」と言うように、完全さの方に焦点が当てられているということ。その違いは非常に大きい。

 そして、今日のメッセージの結論はここにある。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、キリストを「着た」、つまり「着ている」者になったということ。私たちはクリスチャンになったから、だから何かをすることによって「着る」者になるのではなく、「もう着ている」者になったということなのである。この私たちの霊的事実を知ることは非常に重要です。

 知ること信仰の土台であり、その信仰が本物の信仰であることの証しは、ヤコブが言うように、信じるように行うこと、信じるように告白すること。(ヤコブ2:26:「行いのない信仰は、死んでいるのです。」)

※だから、信じているように言ってみよう。「私たちはキリストを着ています!」と。アーメン!

 では実際に、「キリストを着ている」ということは、どんな衣を着ているのだろう?―それを見るために、今日は創世記を開く。

【本論】

創世記1:26~27:「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」

 神が私たちを造られた時、「神のかたち」として、「神に似せられた者」として造られた。ここに、私たちの着ている衣が何であるかが明らかにされている。それは「神のかたち」、「神の似姿」である。

※「神のかたち」、「神の似姿」が私たちの衣です。

 しかし皆さん知っているように、その衣を私たちは、私たちがクリスチャンになるまで失っていた。

ローマ3:23:「すべての人は、罪を犯したので、神の栄誉を受けることは出来ず、」

ローマ5:12:「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。」

 私たちは罪を犯し、初めの人であるアダムが罪を犯したので、私たちは皆、その衣を失ったのです。 しかしそのような私たちを、キリスト・イエスは救って下さった。キリストは、「最後のアダム」として(Ⅰコリント15:45)、最初のアダム、また私たちの犯したすべての罪を身代わりに背負い、十字架の上で贖って下さった。これが私たちの信じている福音です。そして、その福音を信じた結果、与えられた救いです。

 その救いの目的、贖いの目的は何だったのか?―それが、今日のメッセージのテーマであり、それは、アダムが、また私たちが犯した罪の結果失っていた「神のかたち」、「神の似姿」、「キリストの衣」の贖い、回復だった。私たちが罪を犯したために失っていたキリストの衣を取り戻し、それを再び着るためだったのである。

 では、この「神のかたち」、「神の似姿」、「キリストの衣」とはどのような衣だろう?それを知るために、アダムが罪を犯した時、何を失ったかを見てみよう。

 アダムは罪を犯した時、食べてはならないと言われていた善悪の知識の実を取って食べた時、彼はどうなったか?

創世記3:7:「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」

 「彼らは自分たちが裸であることを知った。」とある。ここで使われている「裸」というヘブル語は「エローム」という言葉。この言葉は、「剝き出しで、何の覆いも飾りもない状態、つまり衣を着ていない状態」を指し、文字通り「裸」を意味する。しかしヘブル語では、もう一つ「裸」を意味する言葉がある。それは「アローム」という言葉で、「神の栄光で覆われている、神の栄光で包まれている」という特別な意味を持った言葉。それが聖書のある所で使われている。

創世記2:25:「人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」

 彼らは罪を犯す前、神によって造られた時、「神のかたち」、「神の似姿」である「アローム」という「神の栄光」という衣に包まれていた。だから裸ではあっても、神の栄光という衣に包まれていたので、彼らは互いに恥ずかしいと思わなかった。しかし、彼らが罪を犯した時、その栄光を失い、互いに恥ずかしいと思い、本来ならば神の栄光で輝いている裸を、彼らはいちじくの葉を綴り合せて作った覆いで隠したのである。これが罪の本質である。

 神は、その彼らに与えた神の栄光の姿を、彼らに取り戻すために、最後のアダムであるキリストを遣わし、それを贖って下さったのである。これが「神のかたち」、「神の似姿」、「キリストの衣」の一番重要な部分です。

(1)神の栄光の衣

 イエス様は変貌山で、弟子のペテロとヤコブとヨハネの3人だけに、イエス様が復活するまでは誰にも言ってはならないと彼らの口を封じながら、その栄光の衣、「世のさらし屋でも、それ以上白くすることが出来ないほどに白く輝く栄光の衣」(マルコ9:3)の姿を見せられた。

 また、パウロも御霊の働きとして、そのことについて語っている。

Ⅱコリント3:18:「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 次に、その神の栄光の衣にはいろんな衣の部分があるが、多くは語る時間がないので、簡単にこの創世記の箇所から2つの重要な衣について語る。

(2)権威の衣

V26:「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』」

 神はアダムを造られ、そして、アダムの子孫である私たちを通して、この地を正しく支配し、管理するための権威、力を与えられた。これは委託である。しかし、その権威はアダムの罪のために失われ、サタンの手に渡ってしまった。なので神は一つの型として、アブラムを起こし、アブラハムの子孫によってこの地を支配し、祝福しようとされたが、それもイスラエルの不従順によって止まってしまった。しかし、神はそれをもご存じであって、アブラハムの子孫として生まれたイエス・キリスト、最後のアダムにより、初めのアダムと私たちのすべての罪を贖い、そして新たに、神の栄光の衣に伴う、この地を治める「権威の衣」を着せて下さったのである。

 この権威の衣は、私たちにとっては、マタイ28:18~19にある、主の権威の委託による福音宣教、弟子作りのための権威です。

マタイ28:18~19:「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。』」

 あらゆる国の人々の救いのためにみことばを語り、そのみことばと御霊の働きによって福音宣教、弟子作りを行なうための権威の衣です。その権威を私たちは神から委託されている。それを覚えて出て行こう。

 世の人々の、生まれながらの肉の目には見えないが、霊的存在である悪霊たちには、この権威が分かる。だからイエス様が出て行った時も、汚れた霊どもがイエス様を見ると、「あなたこそ神の子です。」と身許に来て叫んだり(マルコ3:11)、レギオンの悪霊に縛られていた男がイエス様の姿を見た時、「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。…。」(マルコ5:7)と大声で叫んだりというようなことがあった。そのように、私たちが出て行く時も必ず悪霊の妨げがあるだろう。だからと言って恐れることはない。私たちは主の権威の衣で覆われているからです。マルコ16:17にあるように、私たちは権威の衣を着ているので、その権威であるイエス様の御名により、悪霊を追い出すことが出来るのである。

(3)従順の衣

 アダムとエバは、罪を犯すまでは完全に神に従順していた。でもサタンの誘惑によって従順な衣を脱ぎ捨ててしまった。どうして脱ぎ捨ててしまったのか?―発端はどこにあったか?―それは、神の言葉に対する疑い、不従順な心です。サタンは巧みな言葉で、エバの心に疑いの心を入れた。疑いは不従順の始まり、種なのです。

創世記3:1:「さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。『あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。』」

 これを聞けば、エバでなくても私たちも、頭の中で、「そうじゃないよな。そうは言わなかったな。」と、自分の言葉、自分の考えが動き始める。それで、エバも言った。

創世記3:2~3:「女は蛇に言った。『私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。』」

 と、神が言ってもいない「あなたが死ぬといけないからだ。」と、エバの考えが、私たちの言葉が、神のみことばに代わって入ってしまった。神の言葉に対する100%の従順が失われてしまった。

※従順というのは、100%、神の言葉に対して「アーメン!はい、そうです。」と言うこと。自分がどう思うか?自分がどう考えるかではなく、神が見ること、神が思うことに、「アーメン!はい、そうです。」と、全く疑う心も入れず、完全に信じて従うことです。だから、サタンはそのことを知っているので、先ず、私たちの心、思考、思いに疑い、罪の心を植え付ける。そして、神に対する従順の心を奪う。従順な衣を脱がせるのです。

※だから私たちは、いつも神に従順であるために、私たちの心を見張っていなければならない。神が妬みと怒りのためにアベルを殺したカインに対して語ったみことばのように。

創世記4:7:「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

【結論】

 神は私たちを造り、そして私たちに「神のかたち」、「神の似姿」、「キリストの衣」である「神の栄光の衣」を着せてくださった。そして、アダムの罪、私たちの罪によってその衣を失ってしまったが、イエス様によってそれが再び私たちに与えられ、着せて下さった。私たちはその衣を着ている。それと共に、この世を支配し、治める者として、「権威の衣」も与えられた。また、その神の栄光の衣、権威の衣を失なう原因であった「従順の衣」も回復させられ、着ている者とされた。だから、何があってもイエス様への従順を失うことなく、最後まで従って行こう!そのような者として歩んで行こう。

―祈り―


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