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2024. 2. 4 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

黙示録1:20~2:7

【タイトル】

黙示録(5)「エペソ教会へのメッセージ」

【序論】

 前回の黙示録のメッセージでは、1章の序論のまとめとして、ヨハネが見た受肉前のキリストが、これから語る「今ある事」と「この後起こる事」のメッセージを聞いても「恐れるな。」ということが語られたということを見た。そして今日の個所に入るが、そのキリストは次のように語った。

V20:「わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。」

 キリストはヨハネに、1:11で、「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」と、7つの教会に対するメッセージがあることを語ったが、その「7つの教会の御使い」である「7つの星」と、「7つの教会」である「7つの燭台」は、キリストは自分の右の手の中にあることを語った。つまり、教会も教会に仕える御使いも、この「御使い」とは、文字通り「御使い」を指すという解釈もあれば、その教会の「指導者や牧師」を指すという解釈もあるので、この「教会の御使い」は、「御使い、天使」ではなく、黙示録が人から人への使信であるので、ヨハネと同じ人間である「教会の指導者」、または「教会の牧師」と理解した方が自然だろう。

 そしてキリストは、それらが自分の右の手の中にあるということを示すことにより、キリストが教会の頭であって、キリストによってすべての教会は治められているということに立ち、7つの教会に、そして今日の教会に、この2章~3章のメッセージが向けられているのである。

【本論】

 では、最初のメッセージであるエペソ教会へのメッセージはどういうメッセージだろうか?それを見る前に、これら7つのメッセージには、その語り方に一定のパターンがあるということを見ておきたい。そのパターンを追いながら、今日の「エペソ教会へのメッセージ」を見る。

V1b:「右手に7つの星を持つ方、7つの金の燭台の間を歩く方が言われる。」

①「・・・(という)方が言われる。」と言う言い方で、そのメッセージの送り主であるキリストの姿、特徴が記され、そのことから始まっているということ。これがそのパターンの最初の部分である。

 次のスミルナ教会に関して言うならば、Ⅴ8b:「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。」と言う風にキリストの特徴、姿が語られている。何故そのように、先ずキリストの特徴の描写、紹介から始まっているのだろう?―それは、ヨハネのキリスト理解によるからである。神学や教理を越えた、実際に彼が見て、彼が実際に体験した生のキリストを、彼はこのように描写しているのである。勿論、自分勝手な理解ではなく、御霊の霊感によって記されたキリストの特徴です。だから彼は、この黙示録の前に記した第一ヨハネの手紙の中で、次のようにキリストのことを書いているのです。

Ⅰヨハネ1:1~2:「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──」

※私たちもキリストのことを人に伝えるが、このように証ししたいものです。このような証し人とならせてもらおう。次に、

V2~V3:「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」

②「わたしは・・・を知っている。」という言い方で、教会の現状が語られている。多くはこのエペソ教会に向けられているように、良い点が語られているが、5番目のサルデスの教会や、7番目のラオデキヤの教会に向けてのように、良くない点を指摘して、「わたしは・・・を知っている。」と語られてもいる。サルデスの教会の例で見てみよう。

3:1:「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」

 「生きているとされているが、実は死んでいる。」とはどういうことか?―詳細はサルデスの教会について語る時に語るが、良いことではないことは分かる。では、エペソの教会について、キリストは何が良い点だと言っているだろうか?

 エペソの町は、アルテミス神殿が建てられ、商業の非常に盛んな、小アジア、今のトルコの西岸で、その地域を代表する町だった。パウロは第2次伝道旅行、第3次伝道旅行で、長年そこに留まって伝道した。そのため多くの人々がアルテミス神を拝む偶像礼拝から離れたので、神殿の模型を造って収入を得ていた人々から、パウロだけではなく、エペソの教会が憎まれ、ある時は大きな騒動が起こるほどであった。(詳細は使徒19章)その他、当時、使徒と称して正統な教えではなく、間違った教えを説いたり、金銭を要求したりする人たちが出ていた。エペソの教会にもそのような自称使徒、つまり偽使徒たちが訪れていたはず。コリントに宛てた手紙の中にそのことが記されているので、見てみよう。

Ⅱコリント11:4~5:「というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。11:5 私は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いません。」

Ⅱコリント11:12~13:「しかし、私は、今していることを今後も、し続けるつもりです。それは、私たちと同じように誇るところがあるとみなされる機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切ってしまうためです。こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。」

 そういう中で、パウロだけでなく、エペソの教会の兄姉たちも、労苦と忍耐を働かさなければならなかった。今日も同じである。次に、

V4:「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」

 V2~V3では、良い点について語っていたが、つまり褒めていたが、ここでは非難している。これは、先ほどサルデスの教会の悪い点の指摘を見たが、興味深いことに、同じパターンで、先に良くない点を指摘した教会に対しては、後では反対の良い点が語られているのである。サルデスの教会での例。

3:4:「しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。」

 また、エペソの教会に対しても同様に、V6:「しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。」と、先に、Ⅴ4:「あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」と非難をしたが、その後再び称賛しているのである。ここでそのパターンが繰り返されている。

 このニコライ派とは?―この派についてはこの黙示録にしか出て来ず、資料が少なくて詳細には分からないが、使徒15:29にあるように、エルサレム会議を開き、異邦人信者が増えて来た1世紀の教会で、異邦人にもユダヤ人の教会の食物規定を守らせるために規定を緩めたため、それを逆手にとって、或いは曲解して、偶像にささげた物を平気で飲食し、不品行をしても大丈夫なように教える間違った自由奔放主義的な教えのこと。

※どうしてこのパターンが繰り返されているのか?―それは、非難すべき点を強調して、次に一番重要なメッセージを語りたいからである。エペソの教会に対しては、そして今日の教会に対して、キリストは何を語ろうとしているのだろうか?

V5:「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」

③「悔い改めて、初めの行いをしなさい。」という矯正、方向転換、悔い改めのメッセージである。

 そして最後に、

V7:「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」

④招きと挑戦、挑戦と招きである。

 ここで鍵になる言葉は、「勝利を得る者」である。この言葉は、この後6つの教会の最後の挑戦と招きのところで必ず使われている。この招きと挑戦は、結局、信仰と従順への招きと挑戦である。

Ⅰヨハネ5:5:「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」

【結論】

 今日私たちも、1世紀のエペソの教会のように、同じような霊的環境の中にいる。その中で信仰生活を送って行くために必要なのは、キリストがヨハネに書き送って知らせたように、①キリストの姿を語り、②キリストが語る教会の現状を悟り、③悔い改めのメッセージに応え、④信仰と従順を持って、招きとチャレンジに応えることである。

 これは、今年の教会の年間テーマにも通ずること。私たちがキリストの満ち満ちた姿に変えられて行くためには、エペソ4:13にあるように、みことばから来る「信仰の一致」と、神ご自身が啓示され、私たちが体験的に知って行く「神の御子に関する知識の一致に達すること」が不可欠だからである。

―祈り―


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