【聖書個所】
マタイ28:16~20:
【タイトル】
私たちがキリストの似姿に変えられる理由、その2―「弟子となって、弟子を作るため」
【序論】
今日は、前回に続いて、「何故私たちはキリストの満ち満ちた姿、キリストの似姿に変えられて行かなければならないのか?その理由と目的について、2回目のメッセージを語る。
マタイ28:16~20:「しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
【序論】
「私たちは何故キリストの似姿に変えられていかなければならないのか」の理由は、前回のメッセージの結論でもあるが、福音宣教、弟子作りのためである。前回のメッセージでは、ヨハネの福音書中の福音宣教命令の箇所と言われている20:21~23から、「私たちは、イエス様が父なる神からこの世に遣わされたように、私たちもイエス様から、キリストに似た者としてこの世に遣わされているのである」ということを語った。それが、私たちがキリストの似姿に変えられて行く、神様側の理由であり目的であった。
私たちがキリストの姿に造り変えられて行くのは、ただ天国に入る者として相応しい姿に変えられて行くというだけでなく、この世において、キリストが為されたように、キリストと同じ働きをするためであるということ。イエス様はこう言われた。
ヨハネ14:12:「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」
また、「クリスチャンは小キリストである」と言われているのは、そのことでもある。
今日の箇所は、ただ私たちが小キリストになるというだけでなく、私たちも、イエス様が私たちを小キリストにして下さったように、「あらゆる国の人々を弟子とする、小キリストとする。」という働きをしなければならないということを教えている。つまり、福音宣教と弟子作りである。今日は、この箇所からそのことを学ぶ。
【本論】
先ず、2つのことを知っておいて欲しい。福音宣教と弟子作りは、①主の命令だということ。マタイ20:19~20a:「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」
と同時に、これは主の働きであり、そこには主の目的と理由があると言ったように、この福音宣教と弟子作りは、②上からの賜物による働き、主の恵みによる働きであるということである。
V16~V17:「しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。」
引用:2月6日~9日のJPFのゲストスピーカーの一人、ジェフリー・チョン師の証し。中国系シンガポール人で、未だ40代の若い牧師。ホープ・シンガポールという教会の牧会と共に、ラブ・シンガポールというシンガポールのリバイバルのためのネットワーク代表も務めている。~中学校の同級生で、Andrewという人の話。神学教育も現地の言葉も話せなくとも、中国や他の国でいくつもの教会を建て上げた。鍵は神学教育を受けているか、現地の言葉が話せるかどうかではなく、上よりの賜物。主の恵みによる働きだったという証し。
イエス様が弟子作り命令を語った時も、そこにはイエス様の復活、本当にこの人はイエス様だろうかと疑った弟子がいた。それも11人の弟子の中で。しかしそれでもイエス様は彼らに弟子造り命令、福音宣教命令を語った。何故か?―それは、福音宣教は人の信仰深さ、信仰歴、知識や学歴や、その人の持っている能力や性格によるのではなく、上よりの神の恵み、神の賜物によるということだからである。
ヨハネ15:16:「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」
引用:私たちの誤った謙遜例、モーセの誤った謙遜例。私たちは主が私たちをどう見るかによって自分を見ること、それが聖書的謙遜。
そのように、福音宣教、弟子作りは私たちに対する主の命令だが、また同時に主の恵み、主の賜物によることでもある。しかし、そうであっても、Ⅴ19:「あなたがたは行って」とあるように、福音宣教に、弟子作りのために全世界に出て行くのは私たち。
この「出て行く」ということについて。
マルコ16:15:「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」
英語では、「go into」。ただ「go to」ではなく「go into」。この「into」は“εις“(エイス)=「~の中に」という意味のギリシャ語。
いつの時代でも、教会の多くの問題はここにある。元々、私たちはこの世にいた。しかしイエス様の恵みにより、「この世」から「神の国」、「教会」に移された。これを「エクレシア“εκκληςια“」=「召し出された者」と言う。「エク」とは、“εκ”=「out of」。「into」=“εις“の反対。クリスチャンはこの罪の世から“εκ”=「out of」、救い出された者だが、いつの間にか、大きな海の中の魚が生け簀の中の養殖魚になってしまったかのように、何もしないでもいつも餌が与えられる居心地の良い環境の中から出て行かず、イエス様がこの世に来て下さったように、この世に出て行くことをしなくなってしまった教会。そこに問題がある。
世の光である私たちは、教会の中でどんなに輝いても意味がないのであって、世の光として必要なのはこの世の中である。地の塩である私たちがどんなに教会の中で塩気を放っても意味がないのであって、塩気が必要なのはこの世である。そのことを忘れずにいよう。それが、主が私たちをキリストの似姿にして下さった目的であり、理由である。
引用:「into」(入って行く)に関するK師の葛藤。ミャンマーでの伝道の失敗。何をしても福音を証しすることが出来ず、反対に村の人々の世話になるだけ。「何のために来たのか…。」失意落胆の末の帰国。2年間ほど、鬱状態で祈りも出来ず、聖書を開くことも出来なかったが、そんな中で語られたみことば。
ルカ3:23:「教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。このヨセフは、ヘリの子、順次さかのぼって、」
神の子であるイエス様でさえ、30歳までは「人々からヨセフの子と思われていた。」とあるように、人の子と変わることなく、赤ん坊の時は、マリヤからミルクを飲ませてもらい、お締めを替えてもらい、人の世話になりっ放しだったということ。小森師はこの時、主から「私もずっとそうだったよ。」という言葉が掛けられたようで、張りつめていた心の緊張が解けて、「ああ、あれでよかったのだ。」と。福音宣教の本質が見えて来たようで、失意落胆から解放され、癒され、回復して行った。
※福音宣教や弟子作りは、人の力や能力で行なわれるものではなく、神の力と能力で行なわれるものであるということ。必要なのは、ただ神に従って行く従順さ、謙遜さ、忠実さである。それが弟子の本質であり、キリストの似姿に変えられた者の姿なのである。
マタイ16:24:「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」
「自分の十字架を負い」=「自分を罪から救ってくれた主の十字架の恵みを忘れず」、主について行く者。それが弟子であり、キリストの満ち満ちた姿へと変えられたクリスチャン、弟子の姿である。そのように、ただ従って出て行けば、主の権威と主の臨在の恵みによって、福音宣教は、また弟子作りは為されて行く。
V19~V20aの福音宣教、弟子作り命令のみことばの前後に何があるか?
V18:「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」
主の権威の恵みがある。
V20b:「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
主の臨在の恵みがある。
【結論】
このように、主がともに居て下さって、福音宣教と弟子作りは行われて行く。だから、私たちは主のみことばに従って、主に遣わされるまま出て行こう。そして、主を証しして行こう。そして、私たちがキリストの似姿、弟子の姿に作り変えられて行くように、私たちが出会う人たち、周りの人たち、まだあなたを知らない家族の中の人たちも主の似姿に変えられて行くように、祈りつつ、主を証ししよう。
―祈り―
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