【聖書個所】
ヨハネ20:21~23
【タイトル】
何故私たちはキリストの似姿に変えられるのか?―「満たされて、遣わされるために」
【前置】
今年の私たちのテーマは、「キリストの満ち満ちた姿に変えられて行くこと」だが、ここで注意しなければならないことは、「になる」ではなく、「に変えられて行く」ということ。私たちは、肉の努力で「キリストの満ち満ちた姿になること」は出来ない。御霊の実が結ばれるのと同じように、キリストの満ち満ちた姿に変えられるのは、御言葉による働き、御霊による働きだからです。そのために、一昨年と昨年は「キリストに根差す」、つまりみことばと御霊に根差すことを目標に歩んで来た。みことばと御霊に根差すとは、みことばとの交わり、御霊との交わり、つまり聖書を読み、祈りをし、礼拝をするという、地味だけれども、基本的な信仰生活を送ること。それにより私たちはキリストの姿へと変えられて行くのである。なので、「キリストの似姿へ変えられる」ということは目標であると同時に、結果でもある。
そういう意味で今日から暫くは、目標としての「キリストの満ち満ちた姿」にではなく、結果としての「キリストの満ち満ちた姿」にフォーカスを置いて、メッセージを取り次いで行きたい。つまり、キリストの満ち満ちた姿になると、私たちはどうなるのか?―言い換えると、何故私たちはキリストの似姿に造り変えられて行くのかという「変えられて行く理由、目的」でもある。勿論、その理由、目的は、私たちの理由、目的ではない。それは私たちを救われた神の側の理由であり、目的です。
エペソ4:1:「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」
ここでの「召し=Calling」というのは「救い」のことであり、「ある使命に召す」という「召命」のことでもある。「召し」には二重の意味がある。
イエス様は、私たちが罪の世界の中に居る時に、「そんなところにいたら、いずれ滅びるから、こちらに来なさい。」と呼び掛けてくれた。それが救いとしてのCallingです。しかし実際にそのCallingは、イエス様が上から、「さあ、そこから頑張って上がって来なさい。」というCallingではなく、自らこの地上に降りて来て、私たちの代わりに十字架に着き、死んでよみがえるという、私たちの救いのために、父なる神から与えられたCalling、使命、召命だった。
パウロは、エペソ4:1で、「その召しに相応しく歩みなさい。」と命じ、結果として、今年の御言葉エペソ4:13:「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」と、その召命の目的、理由を語っている。
では、その理由、目的とは何か?―何故イエス様はそこまでして私たちを救い、私たちを召して下さったのか?―それが今日のメッセージのテーマである。今日の主題聖句を見よう。
【主題聖書個所】
ヨハネ20:21:「イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
―祈り―
【本論】
この箇所は、ヨハネの福音書の中の福音宣教命令の箇所と言われているところであり、先ほどの、「何故私たちはキリストの満ち満ちた姿に変えられて行かなければならないのか」の理由、また、「私たちがキリストの満ち満ちた姿になったら、どうなるか」という結果が示されているところでもある。
イエス様はこう言われた。V21b~V23:「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」と。その中のV23:「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」とは、「福音を信じれば救われる」という、福音宣教のメッセージそのもののこと。マルコの福音書で言うなら、マルコ16:16:「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」に当たるところである。
イエス様は、彼らがそのメッセージを語るため、出て行くために、Ⅴ21b:「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われたのである。この箇所は、マルコの福音書で言うなら、マルコ16:15:「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」の箇所。そして、そのためのペンテコステの出来事、使徒1:8に当たる聖霊降臨の箇所が、ヨハネ20:22の箇所なのである。
ヨハネ20:22:「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」」
この時まだ彼らは聖霊を受けていなかったが、これから彼らが出て行くためには、使徒1:8で言うように、また、ルカ24:46~49で言うように、聖霊を受けなければならなかったのである。使徒の働きの2章に記されているように、人は聖霊を受けて、聖霊に満たされなければ、聖書的な意味で、本当に神が計画しているように、福音宣教に出て行くことは出来ない。恐れを克服して、福音を語るためには平安、力が必要だからです。
この時、彼らは恐れていた。なのでイエス様は、彼らに平安があるように、聖霊を受けるように、息を吹きかけたのである。V19:「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」」今日の箇所にもあるように、イエス様はもう一度彼らに、「平安があるように。」と言って、息を吹きかけられたのです。
恐れや不安、或いは、これから何が起こるか分からない人生の転換点、危機の時に人がとる道、態度、行動には次のようなものがある。①逃避の道、アウトサイダーになる、関わろうとしない態度、モラトリアム(債務履行の一時的延長、支払い猶予、責任の履行の猶予)。②妥協の道、諦め、同調、無抵抗な態度。③対立、対決姿勢の道。①~③はこの世の人の取る道である。
しかし、私たちには第4の道がある。それが、④キリストの道。私たちが目ざしている「キリストの満ち満ちた姿の者」がとる態度、行動、道である。聖霊に満たされた者の道である。この道に歩む者は、逃避することも、妥協することも、対立することもない、しかし、確実にこの世にインパクトを与えて、この世を変える道です。
私たちは世の光、地の塩と言われているが、もし、この世に入って行かなければ(逃避していれば)、この世に何の影響ももたらすことが出来ない。②もし妥協すれば、光を失い、塩気を失ない、やはり何の影響ももたらすことが出来ない。③対立すれば、ぶつかり合うだけで、相手を変えるどころか、却って相手を頑なにするだけ。しかし、④キリストの道、聖霊に満たされて、キリストに満ち満ちた生き方を取れば、相手にインパクトを与えることが出来る。ペンテコステの日のペテロの説教のように、美しの門にいた生まれつき足の効かない男を癒した後のペテロの弁明の時のように。
使徒4:13:「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」
この言葉は、二人がただ単に物理的に一緒にいたということだけでなく、霊的にはその結果として、キリストの姿に満ち満ちていたということでもある。
【結論】
あなたはどうだろうか?―キリストに満ち満ちているだろうか?―キリストの似姿に変えられているだろうか?―遣わされた者として、聖霊に満たされているだろうか?―聖霊に満たされるように、祈ろう!
―祈り―
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