【タイトル】
黙示録(21)「ラッパのさばき④―患難期に生きる信仰者の務め―」
【聖書個所】
黙示録10:1~11:「また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、獅子がほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」 それから、前に私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った。「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい。」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」
【本論】
V1:「また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。」
「もうひとりの強い御使い」とは、神のさばきのラッパを吹く7人の御使いのことではなく、別の「強い御使い」である。その姿「その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。」によると、その「強い御使い」とは、黙示録1章の、ヨハネが初めに見た「人の子」の姿に似ているので、この「強い御使い」とはイエス・キリストである。
黙示録1:15~16:「その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」
そのイエス・キリストが「雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。」とある。再臨ではないが、まるで再臨の時(マタイ24:30、使徒1:9,11、Ⅰテサロニケ4:16)のようである。
V2~V3:「その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、獅子がほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。」
この時のイエス・キリストが手にしていた小さな巻き物は、黙示録5章から出て来て、8章1節で、7つのすべての封印が解かれた巻き物だと言う人もいるし、それとは別の巻き物だと言う人もいる。いずれにしても、その巻き物は開かれていた。その巻き物を持って、イエス・キリストは、「右足は海の上に、左足は地の上に置き、10:3獅子がほえるときのように大声で叫んだ。」と言う。終末の時に、この地を裁くために来られるイエス・キリストは、初臨の時の小羊のようではなく、ユダの獅子(ホセア11:10、黙示5:5)、王の王として来られる方である。そのイエス・キリストが「獅子がほえるときのように大声で叫んだ」時、「七つの雷がおのおの声を出した。」と言う。神が、またイエス・キリストが叫んだ時の声は、これまでも雷のような声、雷鳴のような声と表現されていた。それは、神の「恐ろしさ」というより、王の王としての「威厳、偉大さ」を表わす表現であった。(詩篇77:18、ヨハネ12:29、黙示4:4、6:1)
V4~V7:「七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、『七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。』」
ヨハネはその雷の声、神、イエス・キリストが語ったことを書き留めようとしたが、「天から声があって、『七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。』と言うのを聞いた。」と言う。一体、イエス・キリストは何を語ったのか?―恐らくそれは、開かれていた小さな巻き物に記されていたことではなかったか?―それは何か?―それはこの後、この御使いイエス・キリストが、「右手を天に上げて、永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓って」(Ⅴ5~Ⅴ6)言ったことの中にある、「封じて、書きしるすな。」(Ⅴ4)と言われた「神の奥義」のことである。「もはや時が延ばされることはない。第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」(V6b~V7)と言われた「神の奥義」、患難期に成就する神の計画である。
※この神の奥義は、第7のラッパが吹く鳴らされると、「もはや時が延ばされることはない。」とあるように、「神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」のである。
※では、この神の奥義とは何か?―それは、次の箇所にある。それが今日のメッセージの中心であり、結論である、患難期を迎える終末の時代に生きている私たちに対する神のメッセージである。
V8~V10:「それから、前に私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った。「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい。」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。」
その奥義は、ヨハネがイエス・キリストの言葉に従ってその巻き物を取って食べた時、その御使いが言ったように、「それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。」(V10)と言うものである。これは一体何か?―これは、「神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」(Ⅴ7)とあるように、神が昔から預言者を通して、変わることなく人々に、また神の民に語り続けられていた「神への悔い改めのメッセージ」である。神を信じ、罪を認めて(告白して)、神へ立ち返るように迫る「神への悔い改めのメッセージ」である。それを、私たちは福音と言う。
福音は、信じる者にとっては、密のように甘い、罪の赦し、救い、癒し、解放を与えるもの。しかし信じない者にとっては、苦い神の裁きを与えるものである。
Ⅰコリント1:18:「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」
ペテロは、この十字架の言葉、悔い改めのメッセージをペンテコステの日に語った。
使徒2:36~38:「『ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。』人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。』と言った。そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」
3000人の人々はこれを聞いて悔い改め、甘い祝福である、罪の赦しと、そのしるしとしての賜物である後の雨の聖霊を受けたのである。
黙示録に返るが、御使いであるイエス・キリストは、神の奥義、その福音は、「ご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」とあるように、預言者たちに告げられていたと言う。そう、この奥義、福音は、原福音から始まって、人類の歴史、イスラエルの歴史を通して、ずっと預言者の口を通して語られて来た。それを、パウロもこの福音を宣べ伝える者として、ローマに送られる前、カイザリヤで、総督フェストやアグリッパ王とその妻ベルニケの前で、次のように弁証した。
使徒26:22~23:「こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」
パウロの宣教の中心は、イエス様の十字架と復活、そして、やがてイエス・キリストはこの世を救うために、裁くために再び来られるという、ずっと預言者が語って来た福音だった。そして、その務めは、今日の私たちにまで繋がっているのである。この箇所の結論だが、聖書は次のように言う。
【結論】
V11:「そのとき、彼らは私に言った。『あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。』」
「彼ら」とは?―「もうひとりの強い御使い」であるイエス・キリストであり、7つのラッパを吹く他の御使いであり、天で神に仕えている多くの御使い、パウロであり、ヨハネであり、12使徒であり、これまで神に仕えていた数多くの預言者、信仰者の霊である。
だから私たちは、彼らが言うように、この福音を預言して行こう。これが、患難期に、患難期を迎えようとしている私たち信仰者の務めである。
―祈り―
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