【タイトル】
「私たちの人生を保証するクリスマスのしるし」
【聖書個所】
ルカ2:8~12:「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』」
今日はこの箇所から、「私たちの人生を保証するクリスマスのしるし」と題して、クリスマスメッセージを語る。「しるし」というのは、「あることがあることであるための証拠、証し」です。例えば、私は「金子辰己雄」と言うが、どうしてそれが証明できるかと言うと、免許証で証明できる。その他、パスポートや、所謂IDカードがあれば、私は私であることが証明される。それが「しるし」というもの。
また、「しるし」というものは、私たちが「何である」というBeingのための証拠だけでなく、何かをする時、つまり、Doingにおいても、「確かにそれをやっても大丈夫!」、「確かにそれは出来る!」という確証になるもの。だから、スポーツ選手は練習をする。練習を重ねることで「大丈夫!」という本番の保証にしているのです。
では、「私たちの人生を保証するクリスマスのしるし」とは何だろう。何が私たちの人生を保証する「クリスマスのしるし」なのか?言い換えるなら、「クリスマスのしるし」の何が私たちの人生を保証するのか?―今日はそのことについて、ルカ2:8~12から語る。
【導入】
人は人生において3つのものを求めると言う。①安心・安全(衣食住+健康)、②受容(「受け入れられている、生きていて良いのだ」という感覚、認識)、③生き甲斐(「生きていて良い」だけでなく、それ以上に生きる意味、価値を人生に見出していること)の3つ。だから、これらが満たされると、人は満ち足りた人生を歩むことが出来る。そして、今日読んだ聖書個所に、この3つの欲求を保証するクリスマスのしるしが記されている。それが今日のメッセージのテーマであり、「何が私たちの人生を保証するクリスマスのしるし」なのかの答えである。
結論を言う。それは、「私たちは神に愛されている」ということと、だから、「私たちは恐れなくてもよい」という、この2つです。それが、この箇所に記されている、私たちの人生を保証するクリスマスのしるしです。私たちの人生の①「安心・安全」を満たし、②「生きていて良いのだ」、③「生きる意味がある、生きる価値があるのだ」という欲求を満たす「しるし」です。
【本論】
V8:「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。」
「この土地」というのは、ユダヤ(今のイスラエル)のベツレヘムという所。V11:「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」の「ダビデの町」のこと。
何故、イエス・キリストがベツレヘムで生まれたかというと、2章の初めに書いてあるが、ある時、皇帝から住民登録をするように言われ、当時ナザレに住んでいたヨセフとマリヤはヨセフの家系の出身地登録のベツレヘムに向かった。しかし、マリヤはそこでイエス・キリストを生んだ。そうすると、ちょうどその時、ベツレヘムの町の郊外で羊を飼っていた羊飼いに御使いが現れ、こう言ったのです。
V10~V11:「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
御使いは彼らに「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主が生まれた。だから恐れることはない。」と言った。言い換えるなら、「救い主が生まれたから大丈夫。あなたは生きていて良い。生きていて良いだけでなく、あなたには生きる意味も価値もあるよ。だから、恐れなくてよいと言ったのです。
そして、そのしるしが何だと言っているか?
V12:「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』」
※イエス・キリストが救い主として生まれ、布にくるまって飼い葉桶で寝ている。その姿が、「あなたがたは恐れなくてよい。大丈夫だよ。」と言うしるしだと言う。これは一体何を指しているのか?―それは、この「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」という姿にその答えがある。先ほど、ヨセフとマリヤは住民登録をするためにベツレヘムに行ったと言った。しかし、行ったには良いが、彼らが着いた時には何処の宿屋も一杯で、彼らの泊まる所が無く、家畜が置かれている所に泊まったとある。
V6~V7:「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
当時の家畜が置かれている所は、今日の家畜小屋のような建物ではなく、岩壁を削り、戦争中の防空壕のように幌穴をあけ、その中を家畜が寝泊まりする場所としていた。そして岩壁に穴をあけ、そこを餌場としていた。つまり、救い主として生まれたイエス・キリストは、冷たい、固い石の上に、布を産着として巻かれて置かれていた。それが、イエス・キリストが救い主として生まれたしるしであり、また、私たちに「恐れなくてもよい。」と言うことが出来た証しだと言うのです。
※そう、このイエス・キリストが救い主として生まれた時の、この姿、布に包まれ、岩の上に置かれていたという姿こそ、イエス・キリストが私たちのために死に、そして、「恐れなくても良い」と言うに最も相応しいすがた、しるしだと言うのである。
イエス・キリストはどのように死なれたか?―イエス・キリストが十字架で死んだ後のところをルカの福音書で見てみよう。
ルカ23:50~53:「さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。」
まさにイエス・キリストは、私たちに救いを与え、「恐れなくても良い。」ということを教え、また、私たちがそのような人生を生きることが出来るようにと、冷たい岩の上に布にくるまれて生まれ、また同じように、冷たい岩の上に、布に包まれて死んで置かれた。岩と布で生まれ、岩と布で死んだ。
※ここに神の私たちに対する愛、私たちがそれほど神に愛されているという神の愛が示されている。
Ⅰヨハネ4:9:「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」
また、その愛は無条件の愛です。
ローマ5:6~8:「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
だから、私たちは恐れることはない。
Ⅰヨハネ4:18:「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」
【結論】
先ず、私たちは神によって無条件の愛によって愛されている。そのような愛によって愛されている存在、Beingであることを知ろう。それを知るならば、私たちは大丈夫。私たちはその神に愛されている者として、Doing、恐れないという生き方を生きて行くことが出来るのである。
だから、鍵は先ず、神が私たちのために御子であるイエス・キリストをこの世に遣わして下さったことを知り、その愛を信じ受け入れよう。そして、その愛によって恐れることなく生きて行こう。これが「私たちの人生を、神の愛によって保証する、私たちの必要のすべてが満たされて、恐れなく生きて行くためのクリスマスのしるし」である。
ルカ2:10~12:「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』」
―祈り―
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