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2024.12.15 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【タイトル】

黙示録(22)「ラッパのさばき⑤―ふたりの証人の務め―」

【聖書個所】

黙示録11:1~14:「それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らに入り、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。」

【本論】

V1:「それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ」

 この箇所は、前の10章から続く第6のラッパが吹き鳴らされた後に起こる出来事、地上で起こる出来事としてヨハネが見た啓示の幻である。

 「杖のような測りざお」の「測りざお」とは、文字通りの訳では「葦」。茎が真っすぐなので、当時の人々は、家を建てる時の建築用定規として用いていた。長さは6キュビト。一般の建築の場合は、それは約267cm(1キュビト:約44.5cm)。王のキュビトと呼ばれている神殿等の建築の時には、その長さは、約312cm(1キュビト:約52cm=44.5+ひと手幅6.5cm)。

 では、何故御使いは、その御使いは前回学びではイエス・キリストであったが、キリストはヨハネにその「測りざお」を与えたのだろう?―その前に確認しておかなければならないことだが、ヨハネがこの時測るように命じられた神殿は、ヨハネがイエス様と共に生活していた時にあったヘロデの神殿、第2神殿では勿論ない。ヨハネにこの黙示が与えられた1世紀の終わりには、その神殿はローマによって破壊され、存在していなかったからである。この神殿は、これから患難期に向かう中で建てられる第3神殿のこと。因みに、この終末の患難期に建てられる神殿を測ることに関しては、ゼカリヤ2章、エゼキエル40章でも記されている。

 初めに戻るが、では何故キリストはヨハネに「測りざお」を与え、その神殿を測るように命じられたのか?―それは、「神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。」とあるように、ただ物理的に聖所と祭壇の寸法を測れということではなく、そこで捧げられている礼拝がどんな状態であるかのか、そこで礼拝を捧げている神の民の霊性はどんな状態であるのかを測れ、知れということである。

 これはその後、キリストがヨハネに、Ⅴ2:「聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。」とあるように、患難期が来ると、それも後半の「四十二か月」、3年半の始まる時が来ると、反キリストが正体を現わし、神殿で自分を神、自分をキリストだと言い、自分を拝めというようになるからだと言う。そして、実際にそのように反キリストをキリストのように、神のように礼拝する者たちが起こる。それも、祭司や神殿で仕える神の民であるレビ人たちの内から堕落する者が出て来るようになるからである。エゼキエル40章を始め、エゼキエル書の他の部分でも、終末預言として、終末に生きる神の民の霊的堕落ぶりが語られ、その民への神の裁きが記されている。勿論、最終的な回復の預言も語られているが。

 黙示録に戻る。だから、「彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。」とはそのこと。ただ、ここでキリストがヨハネに、「聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。」と言っているのは、反キリストの現われも、それに伴う神の民の堕落も、神の救いの完成に至る中で、限定的に許されて起こることだということを私たちは知らなくてはならない。「四十二か月」というように期限が示されているのは、そのこと。神がサタンに敗北し、反キリストが勝手気儘に現れたということではない。すべては神の御計画の中で起こされることなのである。

 では、何故神はそのような計画を立てられたのか?―それが、今日のメッセージのタイトルにある「ふたりの証人の務め」に関係がある。

V3~V6:「それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。」

 彼らが預言、この預言と言うのは、前回学んだ10章の終わりに出て来る巻き物に記されている神の言葉、福音を語ることに繋がっている。信じる者には密のように甘い祝福だが、信じない者には苦い神の裁きが待っているということを伝える福音のことである。彼らはそのメッセージを「千二百六十日の間預言する。」と言う。この期間は、反キリストの活動期間の「四十二か月」と同じ3年半で、1ヵ月を30日として計算した時の3年半である。反キリストが3年半地上で活動する間、ふたりの証人も同時に活動するのである。

 この「彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。」(V4)と言うが、「オリーブの木」また「燭台」は、聖書では神の民、また教会を表わしているが、具体的にここで「二本のオリーブの木」また、「二つの燭台」と言われている「ふたりの証人」は誰を指しているか?或いは、誰のようであるのか?―V5~V6を読むと、その様子から、エリヤとモーセのように思える。イスラエルの王アハズヤが彼の王宮の部屋の欄干から落ちて怪我をした時、彼はエリヤを呼びにしもべたちを遣わしたが、エリヤは彼らの心を知って、天から火が下ってしもべたちは焼き尽くされた。(Ⅱ列王記1章)それは、「彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。」(V5)のようである。また、「この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、」(V6)というのも、エリヤが祈ると3年6ヶ月の間、雨が降らなかった(ヤコブ5:17、Ⅰ列王記17章)ということと似ている。また、「水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。」(V6)というのは、モーセがパロの前でエジプトにもたらした奇跡、災いに似ている。

 しかし、そんな彼らも、Ⅴ7~V9:「そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。」とある。

 「底知れぬ所から上って来る獣」は、9章で出て来た「アバドン(アポリュオン)」か、サタンか、反キリストか、いずれにしても、悪の巣窟からある獣が現れて、彼らを殺すのである。そして、「霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都」、「彼らの主もその都で十字架につけられたのである。」とあるように、その都はエルサレムのことだが、彼らはそこで3日半もの間、墓に葬られることもなく、「もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々」とあるように、世界中の人々が見ることが出来るように、その死体は晒(さら)されると言う。これは、今日のTVやネット技術からすれば当然可能なことである。そして、Ⅴ10:「また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。」とあるように、人々は霊的に堕落していたので、ふたりの証人の預言、福音宣教の働きは、彼らにとっては苦々しいものだった。なので、彼らはふたりの証人が殺されたことに喜んだのである。

※私たちの働きは、本来このふたりの証人が行なったような働きでなければならない。私たちの語る福音は、堕落している人たちを喜ばせる甘い言葉であってはいけないのである。

V11~V12:「しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らに入り、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。」

 イエス様が3日目によみがえったように、彼らもよみがえった。それで、「それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。」(V11)それだけではなく、ふたりの証人は、イエス様が昇天されたように、エリヤは雲ではなく竜巻だったが、天に上ったように(Ⅱ列王記2:11)、或いは、私たちの空中軽挙の時のように、天に上って行った。そして、V13~V14:「そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。」

【結論】

 今日のメッセージの結論だが、このふたりの証人は、エリヤとモーセのようであるということだったが、結局、彼らは私たちのことでもある。彼らは私たちの代表として、神の民の象徴として描かれたのである。私たちは、このふたりの証人のように、死んだ時、堕落している人々からは、「死んで良かった。」と思われるほど、みことばを忠実に語らなければならない。証人というのは、(ギ)「マルチュリオン」、殉教者である。私たちは、黙示録2:8~11のスミルナの教会のように、「死に至るまで忠実」でなければならないのである。このふたりの証人はそのようにして働き、よみがえって、天に上って行った。私たちもそのような者でありたい。

黙示録2:10~11:「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。2:11耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」

―祈り―


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