【聖書個所】
マタイ9:27~30a
【タイトル】
「あなたがたの信仰のとおりになれ。」
【序論】
今年一年、キリストの似姿に造り変えられて行くことを求めて来た。しかし、これは今年だけのことではない。これは私たちがイエス様に再び会うまで続くテーマである。イエス様に私たちが再び会えば、私たちは完全な姿へと、完全なキリストの姿へと変えられる。(Ⅰコリント13:10~12、エペソ4章、5章)
今日は、今年のテーマの最後のメッセージとして、キリストの似姿に造り変えられて行くことを求める私たちにとって、どうしても無くてはならないものについて語る。
結論を言う。それは信仰です。「信仰」という文字が「信じて、仰ぎ見る」という文字からなっているように、「誰を、何を信じて仰ぎ見るか」によって、私たちの造り変えられた時の姿は変わるのである。誰をモデルにし、何を模範にして生きるかにより、私たちの最後に到達する姿が決まるのである。
スポーツ、芸能、芸術の世界で、「あんな風になりたい、こんな人のようになりたい。」と、モデルの姿を仰ぎ見ていると、段々とその傾倒しているモデルに似て来るように、「信じて仰ぎ見ること」=「信仰」がその人を造るのである。だから、「何を信じて仰ぎ見るか?―誰を信じて仰ぎ見るか」という信仰は重要なのである。
【本論】
今日開いた聖書個所はそのことを教えている。
マタイ9:27~30a:「イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、『ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。』と叫びながらついて来た。家に入られると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが『わたしにそんなことができると信じるのか。』と言われると、彼らは『そうです。主よ。』と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって、『あなたがたの信仰のとおりになれ。』と言われた。すると、彼らの目があいた。」
この二人の盲人は、Ⅴ26:「このうわさはその地方全体に広まった。」とあるように、それ前に記されていた、死んだと思われていた会堂管理者の娘がイエス様によって生き返らされたことにより、そのうわさがその地方全体に広まったので、それを耳にし、彼らは、そんな奇跡を行うことが出来るのは、イスラエルの国にやがて来られる救い主、キリスト=ダビデの子に違いない、と彼らは信じたのである。まさに、ローマ10:17:「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」の通り。
そして彼らは、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。』と叫びながらイエス様の後について行き、イエス様の入った家に入って行った。それでイエス様は彼らに、「わたしにそんなことが出来ると信じるのか。」と訊ねると、彼らは「そうです。主よ。」と答えた。
※この「そうです。主よ。」に、彼らの、「誰を、何を信じるか」という彼らの信仰が表れている。「そうです。あなたはダビデの子である救い主、癒し主、全能なる神様です。あなたは私たちを癒すことの出来る神様です。あなたは私たちの目を開くことの出来る神様です。」という信仰の告白をしたのである。ただ、「癒してください。目を開けて下さい。」と、ただ自分の願い、必要を訴えたのではなく、「あなたは、私の目を癒して下さることの出来る、全能なる癒し主なる神です。」と、「イエス様を主なる神」と信じる信仰を告白した。だからイエス様は彼らに、Ⅴ29:「そこで、イエスは彼らの目にさわって、『あなたがたの信仰のとおりになれ。』と言われた。」そして、Ⅴ30a:「すると、彼らの目があいた。」のです。
※ここに、私たちがキリストの似姿へと造り変えられて行くためにはどんな信仰を持たなければならないか、どんな信仰でなければならないかが明らかにされている。
イエス様は彼らの目にさわり、他のイエス様の癒しの奇跡の箇所「わたしのこころだ。きよくなれ。」(マタイ8:3のらい病人のいやし)や、「イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。」(マタイ17:18のてんかんの霊に憑かれていた男の子の癒し)のように、この二人の盲人に、「目よ。開け。」と命じられたのではなく、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われたのである。信じる者の信仰に委ねられた。ここに、私たちがキリストの似姿に造り変えられて行くかどうかを決める信仰の姿が示されている。それは、二人の盲人が持っていた信仰のように、神を神とする信仰、神を私たちの主とする信仰です。
もう一つの例を見てみる。Ⅱ列王記5章に記されている、アラムの王に仕えていた将軍ナアマンがエリシャによってらい病が癒された箇所です。
Ⅱ列王記5:9~14:「こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。エリシャは、彼に使いをやって、言った。『ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。』しかしナアマンは怒って去り、そして言った。『何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。』こうして、彼は怒って帰途についた。そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。『わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。』そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」
ナアマンはどうして癒されたか?―エリシャの言ったとおりにしたからである。その前までは、彼にも多少の信仰があって、イスラエルから連れて来た一人の娘の言葉によってエリシャに会いに来るほどの信仰はあった。しかし、その信仰はどんな信仰だったか?―神のいやしのみわざを、自分のイメージで作り上げた信仰だった。自分の想像、自分の望み、自分中心の信仰だった。
※ここに、私たちがキリストの似姿になかなか造り変えられて行かない、クリスチャンとして成長して行かない原因がある。「こうあって欲しい。こうでなければ困る」と言う、自分の必要や願いを優先させ、勝手に作り上げる神信仰である。だから、それから外れると、「では、そんな神は信じない。そんな神は必要ない。そんな神には仕えない」となるのである。あのナアマンが呟いたように。(V11~V12)
【結論】
私たちはどうか?―自分勝手に作り上げた、自分に都合のよい神、キリストを、私たちのモデル、私たちの信仰の基準にしてはいないだろうか?―もしそうであるならば、私たちは聖書が示す、本当のキリストの似姿へと造り変えられることはない。私たちは神によって造り変えられるのであって、私たちが自分の都合のよいように自分の神を造り上げるのではない。それは神信仰ではない。神を神として信じよう。
―祈り―
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