【聖書個所】
創世記14:18~23
【タイトル】
「完全な十分の一のささげもの」
【聖書個所】
創世記14:18~23:「さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。『祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。』アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。ソドムの王はアブラムに言った。『人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。』しかし、アブラムはソドムの王に言った。『私は天と地を造られた方、いと高き神、【主】に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。』」
【前置】
今日はこの箇所から、今年のテーマの「キリストの似姿へ変えられて行く」ことについてメッセージを取り次ぐ。この箇所には、週報にあるように、「完全な十分の一のささげもの」のことが記されているが、その十分の一のささげものと、「キリストの似姿に造り変えられて行く」こととどんな関係があるのか?―それが今日のメッセージのポイントでもある。
【本論】
V18~V20:「さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。『祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。』」とあるが、シャレムの王メルキゼデクという人物がアブラムにこのように言った背景を見てみよう。長い箇所だが、V1~V17を読む。
V1~V17:「さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦った。このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進んだ。彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。十四年目に、ケドルラオメルと彼にくみする王たちがやって来て、アシュテロテ・カルナイムでレファイム人を、ハムでズジム人を、シャベ・キルヤタイムでエミム人を、セイルの山地でホリ人を打ち破り、砂漠の近くのエル・パランまで進んだ。彼らは引き返して、エン・ミシュパテ、今のカデシュに至り、アマレク人のすべての村落と、ハツァツォン・タマルに住んでいるエモリ人さえも打ち破った。そこで、ソドムの王、ゴモラの王、アデマの王、ツェボイムの王、ベラの王、すなわちツォアルの王が出て行き、シディムの谷で彼らと戦う備えをした。エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティデアル、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、この四人の王と、先の五人の王とである。シディムの谷には多くの瀝青の穴が散在していたので、ソドムの王とゴモラの王は逃げたとき、その穴に落ち込み、残りの者たちは山のほうに逃げた。そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと盟約を結んでいた。アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで彼らを追跡した。そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。」
「シャレムの王メルキゼデク」という王は、ヘブル7章で解き明かされているように、永遠の大祭司である救い主イエス・キリストのこと。「シャレム」とは「平和」、エルサレムのことを指す。そのメルキゼデクが「パンとぶどう酒を持って来た。」ということは、イエス・キリストの十字架を表わしており、私たちが受ける聖餐のことを示している。
メルキゼデクはそのパンとぶどう酒を持って来て、アブラムに、V19:「…。『祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。』」と、神からの祝福を受けるように言い、彼の甥のロトの家族やソドムとゴモラを攻め、そこから財産や食料全部を奪って行ったシヌアル、エラサル、エラム、ゴイムの4つの国の軍隊を追いかけ、奪い取られたすべての財産や食料を取り戻して帰って来たアブラムに、そのメルキゼデクは、Ⅴ20a:「あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。』」と言って神をほめたたえた。すると、アブラムはそのメルキゼデクに、Ⅴ20b:「…すべての物の十分の一を彼に与えた。」という。
これは何を示しているのか?―それは、アブラムを信仰の父とするならば、アブラムは私たち信仰者のことであり、信仰者である私たちは、メルキゼデク、即ちイエス・キリストによって「十字架の恵み」という永遠の祝福に預かったということ。だから、私たちはアブラムがメルキゼデクにすべての物の十分の一を与えたように、私たちも、私たちの主であり、神であるお方、イエス・キリストに十分の一のささげもの、つまり、什一献金をささげることを示している。ここに、モーセの律法に十分の一規定が入れられる前に、直接神との関係の中で、アブラムが神と定めた什一献金の規定がある。これは文字による規定ではなく、心の中で定めたもの、信仰から来る規定である.
だから、よく献金は規則ではないから、心で決めたままで良い、捧げても良いし、捧げなくても良いと言うが、什一献金に関してはそうではない。什一献金は、私たちと神との完全な関係を示すもので、什一献金をしないということは、神と私たちとの間には完全な関係がないということを表わすことになる。完全な関係とは、メルキゼデクがアブラムに、「天と地を造られた方、いと高き神より、祝福を受けよ。」とアブラムに語り、メルキゼデクが、アブラムに祝福を与えられた神に「誉あれ。」と栄光を帰したように、神が私たちの祝福の基であり、その方によって私たちは造られ、その方によって私たちは救いを受けたがゆえに、私たちはそのお方に信仰をもって什一献金を捧げるのである。それが、私たちが神に捧げられる「完全な十分の一のささげもの」である。神とのその完全な関係を示す「十分の一のささげもの」なのである。
だから、アブラムがメルキゼデクに十分の一のささげものをした後、ソドムの王が現われて、Ⅴ21:「…。『人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。』」と言った時、アブラムは彼にこう言ったのである。
V22~V23:「…。『私は天と地を造られた方、いと高き神、【主】に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。』」
※アブラムは、自分を富ませて下さる方、自分を祝福して下さる方は誰であるか、彼はしっかりと分かっていた。この天地万物、すべてを造り、すべてを治め、すべてを成し遂げて下さる神以外、自分を富ませて下さる方、祝福して下さる方はいないと、彼は自分の心に誓い、神と契約を定めたのである。それを表わしているのが、十分の一のささげものである。
【結論】
私たちと神との関係はどうだろうか?―私たちもアブラムがメルキゼデクに十分の一のささげものをしたように、神に完全な十分の一のささげものをして行きたい。什一献金は勿論のこと、私たちと神との完全な関係を示すために、信仰生活のすべての場面で、昼も夜もどんな時も、どんなところでも、私たちの神を私たちの神として信じ、その信仰を現わして行きたい。そのためには、私たちは絶えず、私たちの心を、そのように整えなければならない。なので、パウロはそれを覚えて、すべての信仰者に次のように語った。
ローマ12:1~2:「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」
「神に受け入れられる、聖い、生きた供え物」とは、神によって造られ、救われた私たちのことである。だから、そのことを悟り、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあるように、私たちの心を絶えず新しくして行くのである。絶えずそのことを覚えて行くのである。そうすることにより、私たちはキリストの似姿へと変えられて行くことができるのです。
―祈り―
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