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2024.11.17 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

ヨハネ13:34

【タイトル】

「主が愛されたように、互いに愛し合いなさい」

【前置】

 牧師の苦手なメッセージにはいくつかあるが、今日のメッセージもその中の一つ。何故なら、教える者は自らもそれを実行しなければ、偽教師となるからです。偽教師は、ただ間違ったことを教えるから偽教師だけでなく、教えていることを自らも実行しなければ、その教師は偽教師になる。

マタイ23:1~3:「そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。」

 律法学者やパリサイ人たちは当時の教師。だからイエス様は人々に、彼らの言うことは守りなさい。何故なら、彼らは「モーセの座を占めている」。つまり、教師の役割をしているから、彼らの教えることは守りなさいと言われた。しかし、「彼らの行いをまねてはいけません。」と言われた。それは、彼らは教えてはいるが、その教えを「実行していないからだ」と。そしてその後ずっと、彼らを「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち」と言って、彼らの偽教師としての偽りを糾弾している。

 牧師も律法学者やパリサイ人のように聖書を教える者。なので、牧師もそれを守らなければならない。そうしなければ、「いまわしいものだ。偽善の牧師、偽善の教師」と、イエス様に糾弾されることになる。また一方でイエス様は人々に、「彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。」と言っているように、「出来ないから、難しいから」と言って、教えないわけにはいかない。何故なら、牧師だからです。神学校で、ある先生がこう言った。「牧師は3日経ったら止められない」と。ある意味ではそのことは分かるが、今のこのことに関しては、「うーん、そうか?」と思う。

 なので、今日語るメッセージは、そういう意味で語るに難しいメッセージだが、今日のメッセージを、曲げたり、薄めたりすることなく、まっすぐに語ることが出来るよう、それを実行することが出来るように祈って下さい。そして、お互いのためにも祈って行きたいと思う。では今日の聖書個所を開く。

【聖書個所】

ヨハネ13:34:「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

【本論】

 この聖句は、この章の中の、イエス様が弟子たちの足を洗った洗足の出来事の後に、弟子たちに語られた聖句です。イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように」という御自分の愛を、弟子の足を洗う洗足という行為の中に現わされたのです。それも余すところなく。

V1:「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」

 そのイエス様の愛が余すところなく示されている洗足の箇所を読んでみよう。

V12~V15:「イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」

 イエス様はこの後、今日の聖句の「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と命じられた。

 「愛」というものは分かるようでなかなか分からない。だからイエス様は、この命令がどういうものか、「愛する」ということ、それも「互いに愛する」ということはどういうことかが分かるように、それも、実際に弟子たちが自ら体験できるように、弟子たちの足を洗ったのです。愛は言葉だけではなく、形、実体、実感が伴わなければならない。

Ⅰヨハネ3:18:「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」

 しかし、実はこれがなかなか難しい。なのでイエス様は、それが分かり、それを具体的に行なえるように、洗足の行為を行なわれた。そしてこう言った。V14~V15:「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」と。

 どうすれば互いに愛し合うことが出来るのかが分かるように、模範を示して下さったのである。だから、私たちは今日、イエス様が示された模範から学んで行こう。

 先ず、イエス様は誰の足を洗ったかを見よう。

V2:「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、」

 この時まだイスカリオテ・ユダはここに居た。そしてこの後、イエス様は自分を売るイスカリオテ・ユダの足も洗っている。それは何を意味するか?―それは、たとえ敵対者でも、「イエス様がその者の足を洗ったように、愛せよ」という教えであり、その模範であるということ。聖書はこう言っている。

ルカ6:27b~28:「わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」

 これは極限のアガペーの愛です。明らかに敵する意思をもって私たちに敵する人たちに対する愛です。イエス様もそれを行ない、十字架の上で、自分を十字架に付けた敵対者たちのために、父なる神に赦しを求められた。(ルカ23:34)しかし、ここでイエス様が「互いに愛し合いなさい。」というのは、「互いに」という言葉があるように、敵対者との関係より、「互いに」と、お互いに思っている仲間の間のこと。もう一度、Ⅴ12からのみことばを見てみよう。

V12~V14:「イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」

 と、繰り返し「あなたがた」と言う言葉を弟子たちに語っている。それは、彼らがイエス様を信じる信仰者の仲間同士だからです。

 仲間とは誰のことか?―家族、親族、友人、知人、職場の仲間、教会の仲間のこと。しかし、この中で、互いに愛し合うことは実際にはなかなか難しい。しかし、イエス様は私たちにそうするように教え、「互いに足を洗い合うべきです。」と言って、模範を示されたのです。

 どうしてイエス様は「互いに足を洗い合うべきです。」と言ったのか?―「手」ではなく、昔の銭湯のように、「背中」でもなく、「足を洗い合うべきです。」と言ったのか?―理由は、イエス様が言われたように、「水浴した者(きよい者、救われた者)は、足以外は洗う必要がないからです。」(V10b)

 一度イエス様を信じる信仰をもって、その信仰を告白して救われた者、洗礼(水浴)を受けた者は、もう全身がきよいからです。しかし、現実には信仰生活の歩みを歩む中で、人は罪を犯す、足を汚す。「そんなことはない。」と言う人は偽りを言っている。Ⅰヨハネ1:8:「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」

 だから私たちはそれを認めて、お互いに足を洗い合わなければならないのです。

※「足を洗う」ということは、私たちの人生そのものです。私たちの人生、それがクリスチャンの人生であっても、そうでなくても、「足を洗う」、「足を綺麗にする」ということは、どんな人にも不可欠。何故なら、私たちは失敗をして、足を汚すことを繰り返すからです。

 ある人が、「クリスチャンというのは、“Under Construction:工事中”という札を下げて歩く人のようだ。」と言ったが、正にその通り。そのことは誰の人生にも当てはまるが、特にクリスチャンにとってはそう。神様は私たちをキリストの似姿へと造り変えようとしている、神様は私たちの救いを完成させようとしているが、その過程では、私たちは何度も造り変えられて行かなければならない。そのために必要なのが、「足を洗い合うこと」、「お互いに愛し合うこと」、「お互いに赦し合うこと」、それが必要。

※過去の失敗した汚れ、過去の罪をお互いに洗い流し、忘れ、お互いの将来の姿に向かって励ましあうこと。それが必要です。それは困難に思えるかもしれないが、そのためにもイエス様は模範を見せて下さっている。どうすれば出来るか教えて下さっている。

V3~V4:「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」

 「上着を脱ぐ」の「脱ぐ」は、ギリシャ語「テセーミ」(「捨てる」と言う意味。ヨハネ10:11:「良い牧者は、羊のために命を捨てます。」と同じ)が使われている。つまり、神の子としての栄光を捨てられ、その上着を脱ぐこと。私たちにとっては、プライド、脱ぎたくない上着を脱ぐことだが、イエス様はそれを脱ぎ捨てられた。どうしてそれが出来たのか?―それは、「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ」とあるように、自分が何のために父の許を離れ、上着を脱いで、十字架に架かるのかという意味、目的を知ったからである。つまり、自分のアイデンティティーを獲得したので、イエス様は喜んで上着を脱ぎ、そして弟子の足を洗われたのである。愛を示されたのである。

【結論】

 私たちも、私たちと天のお父様との関係を知る時、つまり、私たちが神様にとってどんな存在で、何とために造られ、何のために救われたのか、何のためにクリスチャンになったのかを知るなら、また、御子イエス様を与えて下さったほどに、神様は私たちを愛していることを知るなら、そのような、私たちのアイデンティティーを知るなら、私たちは上着を脱いで、互いに愛し合うことが出来るのである。

―祈り―


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