【タイトル】
黙示録(18)「ラッパの裁き①ー聖徒たちの祈りと神の裁きー」
【聖書個所】
黙示録8:1~13:「小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現れ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。また私は見た。一羽の鷲が中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。『わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。』」
【本論】
V1:「小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。」
いよいよラッパが吹かれる度に起こる神の裁きの幻が示されて行くが、その裁きの前に「天に半時間ばかり静けさがあった。」と言う。「半時間」というのは文字通りの「30分」なのか、終末預言が語られているダニエル書(ダニエル7:25、12:7)や、黙示録12:14の「ひと時とふた時と半時」が3年半を表しているように、「半年」のことを指すのか、ここでははっきりと分からない。いずれにしろ、Ⅴ1~V6は、第7の封印が解かれた後の天で起きる出来事が記されているので、天井の時間は地上の時間では計り切れないから、「分」や「年」では表現出来ない「ある暫くの時間」のことだろう。そして、それは「静かな時間」だったという。ちょうど嵐の前の静けさのような時間である。何故、神は裁きの前にこのような「静かな時間」を設けられたのか?―私たちの場合、天気予報で大型台風が来ることが分かると、その前に備えをする。それと同じように、神も既に第6までの封印を解き、これから起こる裁きの予告をしているので、まだ神を信じていない未信者に対する備えのための時間を与えられたのだろうか?―そうであれば良いと思う。また私たちもそうでありたいと思う。
V2:「それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。」
いよいよ神の裁きが起こる7つのラッパが「神の御前に立つ七人の御使い」に渡された。この「御使い」は、「神の御前に」立っているので、そのために神によって遣わされる御使いである。そして、
V3~V4:「また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。」
「金の香炉」の「香」とは、黙示録5:8の、患難期と、それまでもいた信仰者の祈りである。その祈りは、黙示録5章では神への賛美だったが(黙示録5:9~10)、ここでは、Ⅴ5:「それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。」とあるように、神に裁きを求める祈りになっている。第5の封印が解かれた時、ヨハネは信仰のゆえに殉教した信仰者が祭壇の下で、黙示録6:10:「彼らは大声で叫んで言った。『聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。』」と、神に叫ぶ祈りを聞いた。その祈りに対して神は、黙示録6:11:「…、『あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。』と言い渡された。」
ようやくその時が来たのである。その祈りが入った香炉に、神の裁きの火が入り、その火で香炉が満たされ、それが地に投げられた。神の裁きが為されたのである。このように、ここでは神の裁きが実行に移されたことが語られているが、祈りに関していうなら、私たちがどのような祈りであっても、その時が来たら、神は必ず応えてくれるのである。だから、私たちも諦めないで、祈り続けよう!
V6:「すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。」
これまでは天での出来事が記されていたが、これからは、ラッパが吹くことで起こる地上での裁きの出来事が記される。先ずV7~V13で、第1のラッパから第4のラッパが吹かれた時に起こることが記されている。
・第1のラッパ:V7:「第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現れ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。」
イスラエルの民のエジプトからの救出の時、モーセは、「もしイスラエルの民を解放しなければ、このような災いを、つまり裁きをエジプトの地に下す。」とパロに語ったが、結局パロはそれを拒んだので、パロの初子、家畜の初子、エジプト中の初子が殺されるという災いを含め、10の災いがエジプトの地に下った。その災いの7番目に、「雷と雹を地上に送る」という災い(出エジプト9:22~26)があった。何故、災いが下ったのか?―それはパロが頑なだったからである。神の言葉に対して不従順だったからである。患難期にこのように災いが下るのも、神に対する頑なさ、不信仰、不従順のゆえなのである。
では、何故「三分の一」なのか?―この「三分の一」は、第5のラッパ、第7のラッパが吹く時にも出て来るが、これは、文字通りの「三分の一」という意味と、「三番目の部分」という意味のどちらにもとることが出来る言葉で、その場合は、ただ3つに分けた「3番目」ということで、必ずしも割合としての「三分の一」ではない。いずれにしても、神はこのように激しい裁きを下されるが、すべてのものを裁いてしまうのではなく、限定的に裁き、悔い改める機会を遺しておられるのである。
・第2のラッパ:V8~V9:「第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。」
「火の燃えている大きな山のようなもの」とは?―ある注解書は、大きな火山が爆発し、大きな燃えているマグマが海に落ち、それによって起こった出来事だと言う。いずれにしろ、これは海の中の生物を殺し、それが海に投げ込まれることによって大きな衝撃、例えば大地震による津波を起こし、その津波によって港に係留されていた船の多くが壊されてしまったことを示す。
・第3のラッパ:V10~V11:「第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。」
天から落ちて来た「たいまつのように燃えている大きな星」とは、大きな流星か隕石か、或いは、これから起こる戦争により、有毒物質を含んだミサイルや、核ミサイルの放射性物質によって水源が汚染され、多くの人が死ぬということかもしれない。
・第4のラッパ:V12:「第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。」
これは、昼の明かりである太陽と、夜の明かりである月と星に何らかの変化があったのか、或いは、太陽や月、また星との間の大気に何らかの変化があって、例えば、火山の噴火や隕石の衝突によって大気中に地上の塵が広がったり、地球の砂漠化により、その砂が、ちょうど中国からの黄砂のように大気を汚し、昼も夜も光が地表に届かなくなった状態のことかもしれない。
整理すると、第1のラッパは地上の木や植物に対する災い、第2のラッパは海に対する災い、第3のラッパは川と水、飲み水に対する災い、第4のラッパは天体、空、気象に対する災いである。しかし、結局それらは最終的には人の生活、人の健康、いのちに影響を及ぼすものである。なので、V13:「また私は見た。一羽の鷲が中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。『わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。』」と、人類に警告を鳴らしているのである。
【結論】
結局、人はいつの時代でも、「神を信じない。」ということは、大したことではないと考え、信じるも信じないもその人の勝手であると考えている。しかし、それは大きな罪である。その時は大したことのように思えないかもしれないが、最後には、その刈り取り、裁きを受けることになるのです。ローマ6:23a:「罪から来る報酬は死です。」とある通り。そのため神は、何度も私たちに悔い改めて神に立ち返るように警告するのです。この「一羽の鷲」もそうである。太平洋戦争の時、戦争末期になって、米軍は日本に降伏するようにバラを撒いた。また、イスラエルがガザやレバノンに対して空爆をする時、事前にネットやばら撒きによって退避を呼び掛けている。神も私たちに対して、そのように警告を鳴らしているのである。
私たちはこれを知り、そのために人々の目が開かれるよう、耳が開かれるよう、とりなしの祈りをしよう。初めに「聖徒たちの祈り」が祭壇の上にささげられた。祭壇にささげるということは、献身をも意味することである。だから、そのために献身しよう。祈ろう。また、未だ時間のある内に、福音を知らせよう。
―祈り―
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