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2024. 1. 7 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【前置】

 今日の聖書個所は、月始めの「黙示録」ではなく、今年の年間テーマに関するメッセージです。エペソ4:11~13から取り次ぐ。

【聖書個所】

エペソ4:11~13:「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

【本論】

 パウロは、エペソ1章~3章で、クリスチャンとはどういう者か、教会とはどういう存在か、そして、クリスチャンに対する神の計画、教会に対する神の計画を明らかにした上で、4章から、その計画の故に、「こうあれ!」と、クリスチャンとしての姿、教会としての姿を語っている。

 今日の箇所はその始めの部分。その始めの4:1で、パウロは「召しにふさわしく歩みなさい。」と命じている。「召し」とは、「神様の私たちに対するみこころ、ご計画、私たちを救われた目的」のことである。「その目的、計画に相応しく歩め!」と語り、その一つの結論として、その理由を、パウロは今日の聖書個所の中で次のように語っていた。V11~V13:「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」と。特に、V13:「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」と。

 ここに、「ついに」という言葉があるように、私たちが何故召されたのか、何故私たちは救われたのかについての理由、その目的が明確にされている。それは、「私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」ということです。

 「私たちがみな」というのは、「私たちが全体として」、或いは「私たちの全員が」という全体を指して言っている意味と、「私たちの一人一人が、一人として漏れることなく」という意味での「ひとりひとりに焦点を当てて言っている意味」の2つがある。だから、次の「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し」とあるように「一致」という言葉が使われているのです。

 この「一致」ということは、教会の全体にとって、また一人一人にとって、とても重要な点である。だからパウロは、この4章の書き出しの初めの所から、「一致」の重要性、「ひとつであること」の重要性を繰り返し語っているのです。

V3~V6:「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」

※私たちは、教会全体としても、また一人一人においても、神を信じる信仰、イエス・キリストを信じる信仰、聖霊様に従って行く信仰において、お互いの間において、また神に対して、一つでなければならない、一致していなければならない。この一致がなければならないのです。

 それは、神が信仰の民として召したイスラエルの民の歴史をみれば分かる。イスラエルの民は、全体としても、また一人一人を見た時でも、お互いの間で、また神に対する信仰において一致を失った時、彼らは滅ばざるを得なかった。士師記が典型的な例である。ヨシュアが死んだ後、カナンの地ではヨシュアのように民を導く人が現われず、人々は、「めいめい、自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(士師17:5、21:25)とある。そのため、イスラエルはミデヤン人やアマレク人、ペリシテ人との間で絶えず争いが絶えなかった。その度に民は神に叫び求め、ギデオン、エフタ、デボラなどの士師が民を救った。

 教会もそうである。初代教会の頃から異端が現われたり、1054年に教会が西方教会と東方教会に分裂したり、ルターの宗教改革の後も、数多くの教派教団が生まれたり、結局は、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なって」、一致を保つことが出来ず、教会は分裂していったのです。

 しかし一方でパウロは、教会全体を見た時、分裂ではないが、教会の中には一つではなく、さまざまな奉仕と働きがあることも語っている。それをパウロは「キリストの賜物の量りに従って与えられる恵み」、また「賜物」と言っている。

V7~V8:「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」

 このさまざまに異なる奉仕、働き、恵み、賜物が教会に与えられている理由、目的はただ一点、教会が、また一人一人が、キリストの満ち満ちた姿にまで変えられて行くために過ぎないからです。

V11~V13:「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

【結論】

 このように、キリストは私たちの失った神の子としての姿、働き、栄光を贖うため、回復を与えるためにこの地に来て下さり、十字架の上で御業を為して下さった。そして葬られてよみがえって下さった。そして今、こうして私たち一人一人に賜物を与え、私たち一人一人のうちに恵みを注ぎ、御霊の働きによって私たちをキリストの姿へと造り変えて下さっているのである。このことを覚え、今年一年、私たちはキリストの満ち満ちた姿に、わざ(言動)において、また品性において変えられて行くことを求めて行こう!

―祈り―


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