【前置】
今日も先週に続き、今年のテーマと共に、今年のヴィジョンを分かち合いながらメッセージを取り次ぐ。
【聖書個所】
ヨハネ4:34~38:「イエスは彼らに言われた。『わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。』」
【序論】
イエス様はユダヤでの働きを終えて弟子たちとガリラヤに帰られる時、サマリヤを通って行かれた。そこで正午頃、ヤコブの井戸で一人のサマリヤの女性に会って救いのみわざを為された。その間、弟子たちはイエス様に食物を買いに行こうと町に行き、そして戻って、「先生、どうぞ召し上がって下さい。」(V31)と食物を差し出すと、イエス様は弟子たちに、「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」(V32)と言われた。すると弟子たちは互いに、「だれか食べるものを持ってきたのだろうか。」(V33)と言い合った。今日の聖書個所は、その時の、イエス様の弟子たちに対する言葉である。
今日はそのイエス様の言葉から、今年のテーマの「キリストの満ち満ちた姿に変えられることを目指そう」についてメッセージを取り次ぐ。
【本論】
この箇所で語られているメッセージはただ一つ。それは、イエス様がこの世に来られた目的、使命は何か?ということと、それに対して私たちはどうあらねばならないか?ということ。イエス様の使命と私たちの使命、その二つのことが語られているが、その二つは切り離すことは出来ない。イエス様が来られた目的は、そのまま、それは私たちの生きる目的だからでもある。
では、イエス様がこの世に来られた目的、使命は何だろう?―それについてイエス様は、
Ⅴ34:「イエスは彼らに言われた。『わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」
と、自分が父なる神様から遣わされ、この世に来られた目的、使命を明確に語られた。
「食物」とは、何のために食べて生きるのか、何のために生きて存在するのかという使命のことであり、私たちの存在目的そのもののことである。
イエス様はある時、5000人への給食の奇跡を行われた後、そこを離れてカぺナウムの町に戻られると、その奇跡に預かった人々はイエス様を追いかけるようにやって来て、ヨハネ6:25:「先生、いつここにおいでになったのですか。」と訊いた。するとイエス様は彼らにこう答えた。
V26~V27:「…。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。』」
ここでもイエス様は、自分の食物は何か?すなわち、イエス様は何のためにこの世に来られ、働いているのかの、ご自身のこの世での使命と目的を明らかにし、そして、それが同時に人々の生きる目的、使命であるとも語っている。その食物、その使命のために働くようにと命じている。
※その食物とは、人々に永遠のいのちを与える食物、いのちのパンであるご自身を与えること、そのために自分は来たとイエス様は語られたのです。そして、それを与えられた人々もそのために生きるようにと命じられたのです。
その永遠のいのちを与えることを、イエスご自身が言われたように為されたことが記されているのが、この4章のサマリヤの女性との出会いの中でのことである。イエス様は、ユダヤからガリラヤに向かう旅の途中で、サマリヤのヤコブの井戸の所に来た。時は「6時ごろであった。」と言う。
V6:「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は第六時ごろであった。」
この6時というのは、昼の12時を示す。その時にサマリヤの女に会い、その時イエス様は喉の渇きを覚え、サマリヤの女に水を求めた。それを通してこの女を救った。この出来事は、カルバリのイエス様の十字架を象徴する。
イエス様が十字架の上にかけられていた時間は、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書によれば、午前9時頃から午後3時頃までの6時間であるが、ヨハネの福音書によると、昼の12時頃に十字架に付けられ、ヨハネの福音書の中では詳しい時間の経過には触れずに、そのまま十字架の上で息を引き取られたことが記されている。
ヨハネ19:14:「その日は過越の備え日で、時は6時ごろであった。」
Ⅴ28:「わたしは渇く。」
この「わたしは渇く。」は、イエス様がサマリヤの女性に、12時に水を求められたこととリンクしている。だからイエス様はここでご自分のわざ:「人に永遠のいのちを与える食物のための働き」を為さり、そして弟子たちにも、だから自分と同じ働き:「人に永遠のいのちを与える食物のための働き」をし、その実を刈り取るようにと言っているのです。
※イエス様が永遠のいのちを与えるために来て、もうその働きをしているのだから、あなたがたもその働きをし、永遠のいのちを刈り取りなさいと言っているのです。
ヨハネ12:24:「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
と言われたように、イエス様はもう来て、その働きをしているだから、もう刈り入れの時が来ているのだというのです。それが、
V35:「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」ということ。
「畑」とは「この世」のこと。イエス様が先ずこの世に来て下さり、ご自身のいのちを畑、この世に蒔いてくださった。だから、「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」もう刈り入れ時がもう来ている。だから、刈り取りの働きをしなさいというのである。
V36~V38:「すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、(ひとりとはイエス・キリスト)ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。』」
私たちはイエス様がこの世に来て、十字架で私たちのために死んで下さったことにより、先ず私たちの救いの実を刈り取った。しかしその実は、ただ私たちのためだけではなく、その救いの実は、まだ救われていない多くの他の人たちの救いという、救いの実の刈り取りのためでもあるのです。
だからイエス様は、自分の救いのためだけでなく、他の人々の救いのための永遠のいのちに至る食物のために、自分と言う種を畑、この世に蒔き、そして刈り取りをしなさいと言うのである。
【結論】
これが、今年の私たちの食物、私たちの生きる目的、使命、ゴールです。「キリストの満ち満ちた姿に変えられる。」ということは、「キリストの似姿に変えられる。」、「キリストの弟子になる。」ということ。キリストが語ることを語り、キリストが行なうわざを行なうということです。
そのために私たちは、イエス様の与えて下さる食物、みことばを食べるのです。みことばを咀嚼し、交わり、イエス様のいのち、イエス様の食物、イエス様が与えて下さるいのちによって私たちは生きるのです。そして、変えられて、キリストの満ち満ちた姿へと変えられて行く。イエス様の来られた目的に、使命に私たちも生きるのです。今年も、そのゴール目ざして歩んで行こう。
―祈り―
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