【聖書個所】
コロサイ4:10~18:
【タイトル】
「人のわざと神の恵み」
【序論】
今日の箇所は、前回に続いて「コロサイ人への手紙」の終わりの挨拶の部分の後半部分。パウロはそこでいろいろな人の名前を上げながら、それらの人が何をした人で、どういう人であるのか、というようなことを記しているところ。一見しただけでは、味も素っ気もない所に見えるが、聖書のみことばは何一つ欠けることなく、無駄なところはないので、そう考えると、この箇所で、パウロはこのような多くの人物の名前を上げながら、私たちに語ろうとしていることがある。それは何なのか?―今日はそのことをご一緒に見て行きたいと思う。
◎パウロはここで何を語ろうとしているのか?―2つある。
【本論】
(1)伝道、宣教、教え、励まし、祈り、礼拝等々、教会の働きは多くの人々の働きによるものであり、またそれは、まとめるならば、教会は、神の働きは「人のわざ」によるものであるということ。
パウロは第3次伝道旅行の後、エルサレムで、パウロを恨むユダヤ人によって殺されようとする時に、ローマの千人隊長によって助けられ、その後、サンヘドリンで弁明する機会が与えられたが、混乱が起きて、結局パウロはカイザルの法廷に立つためにローマに送られ、獄中生活を送ることになった。この手紙はその時(BC61年頃)に書かれたものであることは前に語った。その手紙の終わりの部分で、パウロはこれまでの彼の働きや、その中で出会い、共に働いて来た人々の名前を挙げ、また今、彼と一緒に獄中にいる人々の名前を挙げながら、この手紙をまとめようとしているのである。彼の目には、その人たちの顔が思い浮かび、その人たちがどんな働きをして来たか、またパウロにとって、また教会にとってどういう人たちであったか、パウロにとって、教会にとって良い働きをした人たちだけではなく、中にはパウロを、また教会を裏切る人たちもいたので、そういう人たちのことなども思い出しながら、手紙の締めくくろうとしているのだろう。
それぞれの人がどういう人たちだったか、簡単に見て行こう。
V10:「アリスタルコ」:使徒20:4:「プロの子であるベレヤ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセコンド、…。」とあるように、彼はテサロニケ出身の人だけれども、Ⅴ11a:「ユストと呼ばれるイエスもよろしくと言っています。割礼を受けた人では、この人たちだけが、神の国のために働く私の同労者です。…」とあるように、Ⅴ10に出て来たバルナバのいとこである「マルコ」と、このV11のユストと共に「割礼のある人」、すなわち、パウロ同様ユダヤ人であることが分かる。ユストと言う人については、聖書の他に出て来ないので、どういう人か分からない。しかし、マルコについては良く知っているように、パウロとバルナバによる第一次伝道旅行の時、途中で任務を放棄してしまった人(使徒13:13)ということで、第2次伝道旅行の時にバルナバは彼をまた連れて行こうとしたが、パウロは「途中で任務を放棄するような者は連れて行かない方がよい。」(使徒15:38)と言って、パウロとバルナバの仲が裂かれてしまった元になった人物。しかし後には、彼はパウロに、Ⅱテモテ4:11b~c:「…。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。」と言わせしめる人物に変わった。
V12:「エパフラス」:もう知っているように、コロサイや、この後名前が出て来る(V13)ラオデキヤ、ヒエラポリスなどの教会を起こし、この地域でパウロに代わって働いた人物であり、異邦人。この時、彼も他の人たちと一緒にローマにいた。
Ⅴ14:「ルカ」:ご存じのように、ルカの福音書、使徒の働きを記した異邦人の医者。「パウロ」という映画を見ると、あのパッションでイエスを演じたジム・カヴィーゼルがルカ役で登場する。
V14:「デマス」:ここではルカと共にパウロの傍にこの時いたが、後にはパウロを捨て、信仰を捨てて世に帰ってしまう人物である。Ⅱテモテ4:10a:「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、…。」
Ⅱテモテの手紙はパウロの殉教前の頃の手紙なので、皇帝ネロによるクリスチャンに対する迫害がますます厳しくなっていた時代。そんな中でデマスはパウロから離れて行った、信仰を捨てて行った。これからも私たちの時代もますますそうなるだろう。しかし、黙示録2:10d~e:「…。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」
最後まで忠実でありたい。
V15:「ヌンパ」:ラオデキヤの教会の家の教会の家主。と言っても姉妹である。当時も今も、教会の中の働き人に婦人たちが多く居た。実際、イエス様には多くの婦人たちがガリラヤにいる頃から仕え、彼らはイエス様と共にエルサレムに来た。(マルコ15:40~41)
V17:「アルキポ」:ピレモン2:「また、姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」とあるように、ピレモンと関連のある人物。そこに姉妹アピアという名前が出て来るが、前回のV9で「あなたがたの仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟オネシモ」という名前が出て来た時に説明したように、ピレモンはコロサイにあった幾つかの家の教会の主人で、コロサイでは主のために用いられた人物。そのピレモンと並んで、パウロはアルキポのことを「戦友」と呼んでいる。つまり、パウロ同様、またピレモン同様、またオネシモ同様、主のために忠実に働いた人物であることが分かる。
※このように、パウロはコロサイの教会に関わりのある多くの人々の名前を挙げながら、この手紙の締めくくりとしている。それだけ彼らの働きが重要であったことが分かる。そこから私たちは、牢に入れられているパウロを始めとして、多くの人々の労苦によって教会と言うものは、また教会に伴う伝道、宣教、教え、励まし、祈り、礼拝等々、教会の働きというものは成り立っているということを読むことが出来る。
(2)伝道、宣教、教え、励まし、祈り、礼拝等々、教会の働きは「神の恵み」によるものであるということ。
このことは、もう私たちが理解して信じていることでもあるので異論はないが、みことばを一か所見てみよう。
コロサイ1:6:「この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。」
神の恵みが福音宣教に、また教会成長にどれだけ深く大きく関わっているかということがこのみことば一つで分かる。教会の働きに神の恵みがなければ、それは単なるこの世の団体、組織による働きです。だとするなら、世の中から有能な人をたくさん集めて、伝道、宣教、教え、励まし、祈り、礼拝等々、教会の働きを行なえば、教会はどんどん成長して行くだろう。しかし、教会の働きはそうではない。
Ⅰコリント1:26~29:「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」
※教会とこの世の働きとの唯一の、そして大きな決定的な違いは、そこに神の恵みがあるかどうかである。恵みがあるから、教会は人のわざによらずに、神の恵みによって成長し、実が結ばれて来るのです。
Ⅰコリント3:6~8:「私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。」
だからパウロはこの手紙の最後で、いろいろと人の名前を挙げながらも、「あの人はこうしてくれた。あの人はこうだった。…。」ということを語りながらも、Ⅴ18c:「どうか、恵みがあなたがたとともにありますように。」と祈っている。これは、この手紙の祝祷の箇所となっているが、しかし単なる挨拶、文章作法上のしきたりではない。パウロの実体験から来る心からの祈りなのである。
【結論】
私たちも今日、教会は私たちの働き、つまり「人のわざ」によるものであるということをしっかりと認識しながら、しかし遜って、神に感謝をささげながら、「神の恵み」であることをしっかりと覚えたい。
―祈り―
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