【聖書個所】
コロサイ4:7~9:
【タイトル】
コロサイ書(19)「教会にとってなくてはならない3つのこと」
【序論】
今日までの箇所、コロサイ4:6迄では、コロサイの教会に入って来た、或いはこれから入るかもしれない異端的な教え、例えば、2:8の「むなしい、だましごとの哲学」と言われている二元論的な教えや、2:16:「食べ物や飲み物について、或いは、祭りや新月や安息日について」と言われている律法主義的教え、また、2:18:「御使い礼拝」についての教えなどに対する警告と共に、2:7:「キリストに根ざし、また建てられ、また教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」という今年の年間テーマのように、「健全な福音信仰、健全なみことば信仰によって教会生活を送りなさい」という「勧告の教え」が中心に書かれていた。
だから今日の箇所は、この手紙の本文というより、終わりの挨拶に当たる箇所であると言ってよい。と言って付け足しのような箇所ではなく、この箇所を何度も繰り返して読むと分かるが、その挨拶の言葉の中に、パウロが私たちに「あること」について、「伝えたい、分かってもらいたい」という、心の内からほとばしり出て来るメッセージを読むことが出来る。
今日それが伝わったら幸いである。その「あること」とは、今日のメッセージタイトルになっている「教会にとって無くてはならない3つのこと」ということ。なので今日のメッセージが、ただ頭の中に入って、頭の中で「分かった」というだけでなく、私たちの心の中に入って、パウロと同じように、私たちの心の中でそのメッセージが沸き上がって来るほどになることを願い、メッセージを取り次ぎたい。
【本論】
(1)第一の、教会にとって「無くてはならないこと」とは、「忠実な奉仕」です。
V7:「私の様子については、主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコが、あなたがたに一部始終を知らせるでしょう。」また、
V9:「また彼は、あなたがたの仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟オネシモといっしょに行きます。このふたりが、こちらの様子をみな知らせてくれるでしょう。」
この2つの箇所に、「忠実な奉仕者」、「忠実な兄弟」というように、「忠実」という言葉が出て来て、二人の兄弟、テキコとオネシモという兄弟の名前が挙げられている。
先ず、テキコという人物はどういう人物で、どういう点で「忠実な奉仕者」と呼ばれる人物なのかを見てみよう。彼の名前が最初に登場するのは使徒20:4。
使徒20:4:「プロの子であるベレヤ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、テモテ、アジヤ人テキコとトロピモは、パウロに同行していたが、」
これを見ると、彼はアジア(小アジア)出身のクリスチャンであることが分かる。そして、他の箇所にもテキコが忠実な奉仕者であることが記されている。
エペソ6:21:「あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。」
これは、エペソの教会向けの手紙であるが、ちょうど今日のコロサイの教会向けの手紙の箇所とよく似ている。前にも言ったが、コロサイの手紙もエペソの手紙も、パウロがローマで獄中生活を送っている時に、初めに言ったように、コロサイやエペソに起こった問題に警告と勧めをするために、AD61年頃に書いた手紙であって、ここに「テキコが一部始終を知らせるでしょう。」となっているように、コロサイもエペソもアジアにあったので、同時にパウロが二つの教会宛に手紙を書き、それをテキコに託して持って行ってもらったものである。そして、ローマにいるパウロや他の弟子たちの様子を知らせる働きをしたということ。それだけ重要な奉仕をテキコはパウロから任されたのである。それは、彼が忠実な奉仕者であったからである。誰も忠実でなかったら、大切な務めを任せることはないだろう。そしてこの後、パウロは獄中生活から解放されて再び宣教の働きを開始するが、彼がニコポリという所にいる時、同じようにテキコまたはアルテマスという弟子に手紙を渡して、クレテにいるテトスに届けさせている。それはテトス3:12に記されている。それは、AD65年頃のこと。
そして、彼が最も忠実な奉仕者であることが分かるのは、Ⅱテモテ4:12のみことばからである。
Ⅱテモテ4:12:「私はテキコをエペソに遣わしました。」
これは、パウロが再び捕まって2回目の獄中生活を送り、そして間もなく殉教しようとする前に、その時エペソで牧会をしていたテモテ宛に書いた手紙の後半の部分の言葉。時はAD67年頃のこと。
※このようにテキコは、ある時からずーっとパウロの晩年まで、パウロに、またパウロを通して主に仕えたのである。ここに、テキコの「忠実な奉仕者」としての姿を見ることが出来る。
もう一人の忠実な奉仕者オネシモについてはどうか?―彼についてはこう言われていた。
V9:「また彼は、あなたがたの仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟オネシモといっしょに行きます。このふたりが、こちらの様子をみな知らせてくれるでしょう。」
ここで「彼」とは、テキコのこと。パウロは、テキコが「あなたがた(コロサイの教会の兄姉)の仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟オネシモといっしょに行きます。」と、オネシモのことに触れ、オネシモと共にコロサイの教会に行って、ローマにいるパウロたちの様子を知らせると言っているのである。
オネシモとは「ピレモンへの手紙」に出て来る人物。なので、「あなたがたの仲間のひとりで」という言葉から、オネシモは「あなたがた」=「コロサイの教会」の仲間、教会員の一員だと言うことが分かる。ということは、あのオネシモの主人だったピレモンもコロサイの教会員のひとりということになる。そして彼はピレモンへの手紙V2によると、「また、姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。」とあるように、彼の家が教会だったから、コロサイの教会というのは実はピレモンの家で持たれていた家の教会のこと、少なくとも、その家の教会の一つだったということが分かる。
パウロはその教会宛に、このコロサイの手紙を送り、それだけではなく、パウロがピレモンへの手紙V10~V12で、「獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。」とピレモンに書き送っているように、このピレモンへの手紙も、この時テキコと一緒にコロサイに送るオネシモに託して、ピレモンに渡されたのである。その中でパウロは、いかにオネシモがパウロにとって役に立つ、忠実な奉仕者になったかということを明らかにしている。それが、コロサイ4:9の言葉なのである。
※私たちも皆、イエス様に出会うまでは何の役にも立たない者だった。オネシモのように主人である神に対して罪を犯し、逃亡するような者だった。しかしイエス様に出会い、救われて主に仕える奉仕者になった。だから私たちもオネシモのように、テキコのように、忠実な奉仕者として主に、教会に、人々に仕えよう。
(2)第二の教会にとって不可欠なこと、とは「知る」ということ。
V7~V9:「私の様子については、主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコが、あなたがたに一部始終を知らせるでしょう。私がテキコをあなたがたのもとに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知り、彼によって心に励ましを受けるためにほかなりません。また彼は、あなたがたの仲間のひとりで、忠実な愛する兄弟オネシモといっしょに行きます。このふたりが、こちらの様子をみな知らせてくれるでしょう。」
ここには、「知る」という言葉が3回出て来る。「知る」と言ってもいろいろ知ることがあると思うが、パウロがここで、「私の様子について、…知るでしょう。」、「こちらの様子をみな知らせてくれるでしょう。」と言っているのは、「自分の窮状や様子を知って欲しいから」というよりも、教会と言うのは、そのようにお互いのことを知って、また共に重荷を追いやって、祈り合う、助け合う、支え合う、励まし合うという、「知る」こと、情報の共有に基づいて奉仕する共同体なのである。教会は、「知る」ことが適切に行われて、「知る」ことが分かち合われて、奉仕が為される共同体、神の家族なのである。
引用:山中正雄師(精神科医師、日本アライアンス教団の千葉キリスト教会牧師)のNTT(忍耐、知識、チームワーク)の教え。まさに、知ることによって、チームワーク、忠実な奉仕を行なうことが出来る。
※私たちもそのように、お互いを知り、状況を知り、分かち合い、情報を共有し合い、祈り合って行こう、仕え合って行こう!
(3)第三に教会にとって不可欠なこととは、これが一番大切なものであるが、それは、「愛」です。
V7~V9には、2回、「愛する兄弟」という言葉が出て来るが。これは正確には「愛されている兄弟」ということ。誰に?―「神に」、「兄弟姉妹、互いに」です。
パウロは、ピレモンの手紙の中で、オネシモが主人のピレモンに損害を与えた分、盗んで来た分の代価を払うと言った。
ピレモン:V18:「もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。」
これは、主イエスの私たちに対する贖いの愛と同じ愛である。私たちは、私たちの救いに関して、神の愛を知る時、私たちも兄弟姉妹を、教会を、また人々を、この愛で愛し合う、赦し合う、助け合う、関心を持ち合うことが出来るのである。
【結論】
先ほどの、山中先生の「N」(忍耐)は、愛でもある。Ⅰコリント13:4に、「愛は寛容であり、…」とあるが、それは「愛は忍耐であり」ということでもある。
私たちは救われても、一遍に変わるわけではない。段々と神の似姿に、キリストのかたちに姿が変えられて行く。それには忍耐が必要。その忍耐を互いに働かせて、そして教会は成長して行くのである。
互いに励まし合い、助け合い、祈り合い、支え合って、キリストの姿へと変えられて行くのである。
これからも、そのために諦めず、希望をもって、忠実な奉仕者として、愛を持って、互いの様子を知り、重荷を分かち合って、祈り合って行こう!これが教会にとって無くてはならない3つのことである。
―祈り―
Comments