【聖書個所】
ダニエル6:19~24:「王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びかけ、ダニエルに言った。『生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。』すると、ダニエルは王に答えた。『王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。』そこで王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと命じた。ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。王が命じたので、ダニエルを訴えた者たちは、その妻子とともに捕らえられ、獅子の穴に投げ込まれた。彼らが穴の底に落ちないうちに、獅子は彼らをわがものにして、その骨をことごとくかみ砕いてしまった。」
【タイトル】
ダニエル書(10)「神の前に生きる人、人の前に生きる人、自分の前に生きる人」
【本論】
先ずこの章のストーリーを簡単に見て行きたい。5章で、ダニエルの解き明かしにあったように、バビロンの王ベルシャツァルはメディヤ人ダリヨスによって殺され、バビロンの国は滅んでメディアとペルシャに分割された。しかしその後、2つの王国はペルシャ帝国として統一される。それはBC538年のこと。今日の箇所はその頃の話、ダリヨス王がで、Ⅴ1:「ダリヨスは、全国に任地を持つ百二十人の太守を任命して国を治めさせるのがよいと思った。」とあるように、ダリヨス王は統一したペルシャ帝国を120の州に分け、各州に太守、今日の州知事を置いて各州を治めさせ、国全体を治めようとした。因みに、エステルがペルシャの王アハシュエロス王に仕えた頃、BC486年~BⅭ465年頃、この時から52年後のことだが、ペルシャには127州あったと言う。(エステル記1:1)
Ⅴ2:「彼はまた、彼らの上に三人の大臣を置いたが、ダニエルは、そのうちのひとりであった。太守たちはこの三人に報告を出すことにして、王が損害を受けないようにした。」とある。ダリヨス王は、その120人の太守の上に3人の大臣を置き、国全体を管理させて、特に「王が損害を受けないようにした。」とあるように、税収に滞りがないようにした。
※問題は、その3人の大臣の中にダニエルが選ばれていたことだった。「3人の中にいた」というだけでなく、ダリヨス王は彼を、その3人の大臣の頭、謂わば総理大臣にして国を治めさせようとしたことだ。
V3:「ときに、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわだってすぐれていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。そこで王は、彼を任命して全国を治めさせようと思った。」とある通り。因みに、この時のダニエルの年齢は、彼がバビロンに連れて来られたのがBC605年、15歳の頃。この時がBC538年頃なので、15歳+5年(605年-600年)+62(600年-538年)で、82歳となる。この世的に言ったら、年齢的には十分経験が積まれた良い年ともいえるがどうか?)
ところが、このことがこの6章に記されている出来事の大きな切っ掛けになった。何が起こったのか?―彼はそのために、ライオンのいる穴に投げ込まれた。
V16a:「そこで、王が命令を出すと、ダニエルは連れ出され、獅子の穴に投げ込まれた。」
彼はもともとバビロン人ではなく、バビロンによって滅ぼされた南ユダ王国から連れて来られた者。いわば捕囚の民に過ぎないのに、一国の総理大臣に任命されようとしていたわけだから、他の二人の大臣や太守たちは彼を妬み、その地位を奪うだけでなく、命までも奪おうとした。そのことが分かるのが次の、他の大臣や太守たちの言葉。
V13:「そこで、彼らは王に告げて言った。『ユダからの捕虜のひとりダニエルは、王よ、あなたとあなたの署名された禁令とを無視して、日に三度、祈願をささげています。』」
彼らはダニエルのことを、「ユダからの捕虜のひとりダニエルは」と、蔑(さげす)んでいる。それで彼らは策略を練って、王に嘘をつき、王以外のものに祈願する者、礼拝する者は、ライオンのいる穴の中に投げ込んで殺すという法律を王に作らせ、署名させたのです。
V6~V9:「それで、この大臣と太守たちは申し合わせて王のもとに来てこう言った。『ダリヨス王。永遠に生きられますように。国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し、禁令として実施してくださることに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者はだれでも、獅子の穴に投げ込まれると。王よ。今、その禁令を制定し、変更されることのないようにその文書に署名し、取り消しのできないメディヤとペルシヤの法律のようにしてください。』そこで、ダリヨス王はその禁令の文書に署名した。」
「国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな」は嘘。ダニエルは大臣の一人なので、彼らはダニエルには知らせずに、この法律を作った。ダニエルがこの法律が出来たのを知ったのは、その後のこと。(V10)
彼らは、ダニエルを妬んで失職させるだけでなく、命までも取ろうとした。しかし、結果はどうだったか?―その結果は、今日の聖書個所にあったように、ダニエルは殺されることなく、それをたくらんだ人たちがライオンの穴の中に投げ込まれて死んだという。あのエステル記のハマンに起きたようなことが彼らにも起きた。もう一度その箇所を読んでみよう。
V19~V24:「王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びかけ、ダニエルに言った。『生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。』すると、ダニエルは王に答えた。『王さま。永遠に生きられますように。私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。』そこで王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと命じた。ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。王が命じたので、ダニエルを訴えた者たちは、その妻子とともに捕らえられ、獅子の穴に投げ込まれた。彼らが穴の底に落ちないうちに、獅子は彼らをわがものにして、その骨をことごとくかみ砕いてしまった。」
ここに、今日のメッセージの重要なポイントがあり、私たちはそのポイントに目を留めて行きたい。そのポイントというのは、この世には3種類の人がいるが、どの種類の人を私たちの信仰のモデルとして歩んで行くか!ということ。それは、言わずもがな、ダニエルをモデルにして歩んで行くということである。では、「ダニエルの生き方」とは?―「神の前に生きる生き方」である。
ダニエルは助かった時、こう言った。
V22:「私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」
※「神の前に認められたからです。」―彼はいつも「神を前にして」、「神を意識して」生きていた。人ではなく、また自分でもなく。だから、彼は、あのような禁令が定まっても、彼は変わることなく、いつものように神を礼拝することが出来たのである。
V10:「ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。──彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。──彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」
彼はあのような禁令が出されたことを知ったけれども、だからと言って神を礼拝することを止めたりすることをせず、神中心に、神を第一に、神を前にして生きていた。たとえ、禁令を破ることになってライオンの穴の中に入れられることになると分かっていても。彼は、いつも「神を前にして」、神中心に生きていたのである。
一方、このダニエルのことを案じて、自分が署名した禁令とは言え、そのためにライオンの穴の中に投げ込むことを命じたダリヨス王はどうだっただろうか?―彼はどんな生き方をしている人だっただか?―彼は、「人の前に生きる人」だった。つまり、人を基準にし、人の言葉に、人の行いに支配され、人中心に生きる人だった。それが、彼と彼の家臣、またダニエルとの関係の中に見ることが出来る。
彼は、ダニエル以外の大臣や太守たちの言葉に従って禁令を作り、それに署名した。また一方彼は、ダニエルを見た時に、ダニエルがすぐれた人物だったので、彼を大臣の頭に任じようとし、また、ダニエルが穴の中に入れられる時、また、翌朝心配になってライオンの穴を見に行った時、そして、ダニエルが助け出されて、そしてダニエルを失脚させようとした人たちをライオンの穴に投げ込んだ後、その出来事に基づいて全国にお触れを出すときに、彼は次のように言っている。
・ダニエルが穴に投げ込まれた時:V16:「そこで、王が命令を出すと、ダニエルは連れ出され、獅子の穴に投げ込まれた。王はダニエルに話しかけて言った。『あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。』」
・ダニエルを心配して、ライオンの穴に行った時:V20:「その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びかけ、ダニエルに言った。『生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。』」
・全国にお触れを出す時:V26:「私は命令する。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震え、おののけ。」
彼は、自分の神ではなく、「ダニエルの神」として、ダニエルに目を留めていた。ダニエルの前に、人の前に生きていたのである。
では、ここに登場する3番目の人たちとは?―そう、ダニエルを訴えたダニエル以外の大臣、120州の太守たち。彼らは妬みに燃えて策略を巡らし、ダニエルを失脚させ、殺そうとした。彼らは自分たちの欲望に従って、自分中心に、自分の思いを果たそうと、いつも「自分を前において」、「自分を基準に」生きる人たちであった。
【結論】
さあ、私たちはこの3種類の人たちの、誰を私たちの信仰のモデルとしたら良いだろうか?誰の生き方に従って生きて行くべきだろうか?―そう!ダニエルです。
※彼は、ここではイエス様の品型。イエス様は、どんな苦難に遭おうとも、その苦難の中で、その苦難に貶(おとし)めた人たちを責めることなく、裁くことなく、淡々と苦難を受けられ、神様から与えられた使命を果たされた。
イザヤ53:1~2、7:「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。【主】の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」、「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」
ダニエルも、彼を貶めた他の大臣や太守に対して、また、あのような禁令を作り、署名させられたダリヨス王に対しても口を開かず、つまり、一言も愚痴を言わず、文句を言わず、神に忠実であったように、人に対しても忠実であったのである。
※それは、彼が、いつも「神の前に生きる人」だったからである。同様に、ダビデも。
詩篇16:8:「私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」
どうしてダニエルもダビデも、神の前に生きることが出来たのか?―その鍵は聖霊に満たされること。ダニエルは聖霊に満たされていたので、聖霊に従う生活、神中心の生活を送ることが出来たのである。
ダニエル2:3b:「彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。」
パウロも、彼は彼の神信仰のゆえに、それも初めからイエス様に付き従っていた12使徒たちとは違って、彼は初めは教会を迫害する者であった。そんな彼が回心してイエス様のことを宣べ伝え始めたのだから、彼は同胞のユダヤ人たちから何倍も憎まれ、命を狙われ、迫害された。しかし彼はそんな中にあって、御霊に満たされて歩む信仰生活の大切さを次のように語っている。
ガラテヤ5:24~25:「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」
※私たちも、この信仰によって歩んで行こう。イエス様をモデルに、ダニエルをモデルに、またパウロをモデルに、「神の前に生きる者」として生きて歩んで行こう。
―祈り―
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