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2023.6.25 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

ダニエル3:16~18


【タイトル】

ダニエル書(7)「もしそうであっても、そうでなくても―無条件の信仰、そして―」


【序論】

V16:「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。『私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。』」

 「このこと」とは何?―それは、Ⅴ1~V15に記されていること。要約すると、ある時、ネブカデネザル王は金の像を造った。高さは60キュビト、幅は6キュビトであったとある(V1)。1キュビト≒45cmなので、その高さは27m、幅2.7mの像だが、何の像かは記されていない。ある学者はバビロンの神であるマルドゥクであると言う。ある学者はネブカデネザル自身の像であると言う。ちょうど、北朝鮮の平城の万寿台という丘に、最初の最高指導者である金日成が自分の銅像を建てたのと似ている。その高さは20m。今は、息子の金正日(キムジョンイル)の銅像も一緒に建てられている。因みに、金日成が自分の銅像を建てた当初、ネブカデネザル王の時と同じように金粉で飾った金の像だった。だが、それを見た当時の中国の当時の指導者の一人、鄧小平が「これは少し派手すぎないか」という一言で、その金箔は剥がされたと言う。いずれにしろ、いつの時代でも時の権力者は、自分の権力誇示のためにこのようなことをする。

 ダニエル書に戻るが、ネブカデネザルはその自分が建てた像に対し、ひれ伏して拝まない者は火の燃える炉に投げ込まれるという命令を下した(V2~V6)。そんな時、あるカルデヤ人たち、恐らく、エルサレムから連れて来られたダニエルたちが重用されているのを面白く思わない人たちだろうが、彼らは、ダニエルの3人の友人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴがネブカデネザルの命令に反して像を拝むことをしないと訴え出た(V8~V12)。それで怒ったネブカデネザルは彼らに、「もし拝むならいいが、もし拝まなければ、火の燃える炉に投げ込むが、それでいいか?」また「どの神がそんなお前たちを私の手から救い出すことが出来るか?」ということを、この三人に言った(V13~V15)。

 それに対する答えが、初めのV16の、王に対する彼らの答えであった。もう一度読んでみよう。

V16:「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。『私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。』」そして、彼らは続けて、こう言った。

​ 

V17~V18:「『もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。』」

 今日はこの箇所から2つのメッセージを語る。

【本論】

(1)私たちの神信仰は、無条件の信仰でなければならない

Ⅴ17:「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。」です。

 「もし、そうなれば」というのは、そうなっては欲しくないけれども、「もし、そうなっても」ということ。「そうならなければいいな」と思いながらもそうなってしまう、不可避的状況のことである。

 私たちの信仰生活、クリスチャン生活にも、仕事の上で、人間関係の中で、また自分の健康状態の上で、こういう状況に至ることがある。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人の場合もそうだった。三人はそのことを望んでいたわけではないが、王からあのような脅迫を受けたのである。

※しかし、そうであっても、彼らは、怖気ることなく、動じることなく、Ⅴ17:「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。」と、彼らの神信仰を告白した。

※私たちは私たちの神信仰について、このように「もし、そうなっても」という無条件の信仰の告白を求められる時がある。ペテロもそのことについて次のように言っている。

Ⅰペテロ3:14~16:「いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。」

 この後、この三人の信仰の告白の結果、どうなったか?―確かに彼らの信仰の告白通り、「もし、そうなっても」(火の燃える炉の中に入れられても)、彼らの神が彼らを助けてくださった。それは、ネブカデネザル王の口から証しされていた。

V24~V25:「そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。『私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。』彼らは王に答えて言った。『王さま。そのとおりでございます。』すると王は言った。『だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。』」

 4人目の人は神御自身であり、神の御子であるイエス・キリストです。神は私たちの救いと、救いに伴う働きについて、こう言われている。

Ⅰコリント3:10~15:「与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」

 これは、私たちの働きの真価は、Ⅴ13:「その日」=主の再臨によるさばきの時に決まるということを教えると共に、救い自体は変わらないことを教える。V15:「…、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」それは、イエス様による贖いが完全だからです。

 あのダニエルの箇所は、終わりの日の裁きの時を預言しているわけではないが、無条件の救いの確かさを表しているようでもある。そして、

V26~V30:「それから、ネブカデネザルは火の燃える炉の口に近づいて言った。『シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい。』そこで、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは火の中から出て来た。太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、この人たちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。ネブカデネザルは言った。『ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。それゆえ、私は命令する。諸民、諸国、諸国語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ。』それから王は、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴをバビロン州で栄えさせた。」

 ペテロの言葉にあったように、ネブカデネザル王は彼ら3人をそしったことで恥じ入ったかどうか分からないが、王は彼らの信じる神を認め、この三人を続けて用いて、栄えさせたとある。

※それは、私たちの信仰の言葉の告白の結果、神がその通りにして下さった結果である。

※私たちの信仰もこのように、人の神に対する見方や考え方が見事に変わるような、変えさせられるような、証しの伴う信仰でありたい。

 次に、私たちの信仰は、「もし、そうでなくても」という意味でも、無条件の信仰でなければならない。

 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は、ネブカデネザル王の脅かしに対し、「もし、そうなっても」という意味だけでなく、「もし、そうならなくても」という意味でも神に対する信仰の告白をした。これも、無条件の信仰告白である。

V18:「しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

 私たちはこの信仰告白に関して、私たちの信仰のモデルであるイエス様の信仰の告白の中にそれを見ることが出来る。

マルコ14:36:「またこう言われた。『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』」

 有名なゲッセマネの園でのイエス様の祈り、信仰の告白である。ここで分かることは、イエス様は完全に、無条件に神様を信じ、神様に委ねていることである。その結果がどうなるかが分かっていてもである。つまり、完全に無条件の信仰をイエス様は父なる神様に持っていた。

※私たちは、この信仰を私たちのモデルとしたい。そして、今日の箇所の2つ目のメッセージ。それは、

(2)神の愛は、無条件の愛である

 神様の私たちに対する愛も、「もしそうであっても、もしそうでなくても」変わることのない無条件の愛であることを覚えたい。

 イエス様が、彼らが投げ込まれた火の燃える炉の中に入って彼らを救い出されたのは、彼らがそれに値する人だったからだろうか?―否、そうではない。聖書が私たちに明らかにしている神の愛は無条件の愛だからです。

ローマ5:8:「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

Ⅰヨハネ4:10:「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

 私たちが神の愛を受けることに当たり、私たちはそれに相応しい者にならなければ愛を受けることが出来ないとするならば、この世で神の愛を受けることの出来る者など一人もいない。だとすれば、救いを受けることが出来る者も一人もいないことになる。しかし神は愛だから、私たちが罪人であろうとなかろうと、神様が先ず私たちを愛して下さって、救いのために御子を送って下さったのです。聖書はそのことを明確に語っている。

 神はまた、マタイ5:45b:「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」

 そのように、神の私たちに対する愛は無条件であることを覚え、それゆえに、恐れおののきつつ、神を愛し、神に感謝をささげ、そして、神に対して、無条件の信仰を持って信頼し、委ねて行こう。

―祈り​―


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