【序論】
この箇所は2つに分かれる。一つは、彼自身が死期を迎えようとしている中で、誰でもが恐らく行うであろう過去回顧の作業です。彼もそれを行ない、そして二つ目は、それに基づいて、これから残って生きて行く民に対して遺して置くべきメッセージを語っている箇所、所謂訣別説教の部分です。最初の過去の振り返りの箇所は、V3~V4とV14。それに基づくメッセージがその他の箇所である。では早速、過去の振り返りのところから入って行こう。
【本論】
(1)過去の振り返り
V3~V4:「あなたがたは、あなたがたの神、【主】が、あなたがたのために、これらすべての国々に行ったことをことごとく見た。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、【主】だからである。23:4 見よ。私は、ヨルダン川から日の入るほうの大海まで、これらの残っている国々と、すでに私が断ち滅ぼしたすべての国々とを、相続地として、くじによってあなたがたの部族に分け与えた。」と言って、彼らのこの地の相続分配について、神が為して下さったことを語った。それは、「あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、【主】だからである。」とあるように、神が一切を為して下さったということを覚えることである。
彼らは、エリコ攻略の後のアイの町攻略の際、慢心油断のため、つまり神を頼らずに彼らの経験に頼って失敗した。しかし、そんな彼らに対して、神は彼らを見捨てることなく、彼らを悔い改めに導き、アイの町攻略を成功させた。そのようにして、その後も、彼らは必ずしも神のみこころに完全に一致して進んで来たわけではないが、神は彼らをここまで導かれたのである。そのように、そこには神の恵みのみわざがあったのである。またそれだけではなく、そこには神の変わることのない真実があった。
※神は、神が真実であるがゆえに、御自身の口から出る約束を守られるという、神の真実のことである。それが、V14で語られている。
V14:「見よ。きょう、私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、【主】が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。」
どんな約束が為されていたか?―3つあった。ヨシュア1章の、その約束の箇所に戻ってみよう。
ヨシュア1:1~4:「さて、【主】のしもべモーセが死んで後、【主】はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。」
①カナンの地賦与の約束:「カナンの地を与える」という約束がされていたが、それが神の恵みのみわざと真実によって成就した。次に、
②神の臨在の約束:
V5:「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」
この臨在によって、V3:「あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである。」とあるように、神がイスラエルの民のために戦い、民は相続地を得たのである。
この2つの約束は神の恵みと真実のゆえに実現した。次の3つめの約束は、ここまでの過程の中で実現しつつあるが、最終的には、そこにあるみことばに従って実現するものであった。それは、
③地を受け継ぎ、繁栄するという約束である。
V6~V8:「強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行え。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」
そこでヨシュアは、二つ目のメッセージを語った。それは、V5:「あなたがたの神、【主】ご自身が、あなたがたの前から彼らを追いやり、あなたがたの目の前から追い払う。あなたがたは、あなたがたの神、【主】があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない。」という命令である。
(2)占領せよ。
この時点で、彼らは既に相続地を分割されて、その地を所有し、そこに住んでいる。では、「占領しなければならない。」というのはどういう意味か?―それは、確かに彼らには相続地が分割されていたが、その地には未だ、カナン人やヘテ人、ギルガシ人等、本来ならば、エリコやアイの時のように、完全に聖絶して、一人も残してはならなかったはずなのだが、その地の人々が残されていた。例えば、次のような例のように。
ヨシュア16:10:「彼らはゲゼルに住むカナン人を追い払わなかったので、カナン人はエフライムの中に住んでいた。今日もそうである。カナン人は苦役に服する奴隷となった。」
このように残ってはいるが、神は民に、彼らを追いやり、追い払えとは言っていない。そうではなく、Ⅴ5aにあるように、「あなたがたは、あなたがたの神、【主】があなたがたに告げたように、彼らの地を占領しなければならない。」と言われたのである。
占領というのは、英語で「Occupy」。飛行機のトイレを利用したことがあると思うが、そのドアには、中に人がいなければ、つまり占領していなければ、「Vacant」=「空っぽ」、しかし中に人が居れば、占領していれば、「Occupy」というサインが出ている。「占領」とはそういう意味。そこに他の者が一人もいないということである。
※これは何を意味しているのか?―それは、カナンの地に入った彼らのように、私たちもクリスチャンとしての生活を始めたが、その中で祝福され、完成、繁栄を見るためには、私たちの生活を占領しなければならないということである。神はそのことについて2つの命令を出している。
一つは、「みことばから離れず、みことば従って忠実に生きよ!」ということ。
V6:「あなたがたは、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく断固として守り行い、そこから右にも左にもそれてはならない。」
V8:「ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、【主】にすがらなければならない。」
そうすれば、豊かに祝福されるということである。
ヤコブ1:22~25:「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」とある通り。
二つ目は、
V7:「あなたがたは、これらの国民、あなたがたの中に残っているこれらの国民と交わってはならない。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。」
「これらの国民と交わってはならない。」と言うことは、「これらの人たちと一切関わってはならない」ということではない。だとしたら、私たちはこの世の中から出ていかなければならない。私たちはこの世にあって、周りの人たちと関わりながら生きているからである。だからこれはそういうことではない。「これらの国民と交わってはならない。」ということは、この世の人々と「霊的な交わりをしてはならない」というのこと。つまり最後にある、「それらを拝んではならない」、「偶像礼拝をしてはならない」ということなのである。
偶像とは、私たちの欲望、欲求を満足させるために、私たちの心の中から出て来るもの、生まれるものである。だから、人には基本的に3つの欲求―①「安心を得たい」という安心欲求、②「認めてもらいたい、受け入れてもらいたい」という受容欲求。③「あなたは素晴らしい、良いですね。」と言われて、「ああ、自分は素晴らしいのだ。良いのだ。」と、自分を自分で尊く思う自尊欲求があるが、それを満たそうとするために、私たちは偶像を作り出すのである。何故なら、この世でそれを得ることは容易ではなく、むしろ困難なので、偶像を作り出し、それに頼るようになるのである。或いは困難なために、それらの問題から逃れようとする。そしていつの間にか、逃れた先の物に支配されるようになる。依存症等はまさにそのことである。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5)とある通り。
なので聖書は何と言っているか?
コロサイ3:6~8:「このようなことのために、神の怒りが下るのです。3:7 あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。3:8 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。」
そう、偶像は何の役にも立たないゴミである。ゴミはどうするのが一番良いのか?―捨てること。エゼキエルは、それを「放り出せ。」と言っている。
エゼキエル18:31:「あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」
ただ捨てる、ただ放り出すだけではなく、ゴミ専用のごみ箱に捨てることである。それは、具体的にはどうすればよいことなのであろうか。それは、
Ⅰヨハネ1:9:「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とあるように、
主に告白し、同意、アーメンすることである。そうすれば罪赦されて、新しくされるのである。そうしなければ、つまり、みことばに従って生きて行こうとせず、自分の偶像に従って、欲望のまま生きて行こうとするならば、聖書はこう言う。
ヨシュア23:12~13、16:「しかし、もしもあなたがたが、もう一度堕落して、これらの国民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っている者たちと親しく交わり、彼らと互いに縁を結び、あなたがたが彼らの中に入って行き、彼らもあなたがたの中に入って来るなら、あなたがたの神、【主】は、もはやこれらの国民を、あなたがたの前から追い払わないことを、しかと知らなければならない。彼らは、あなたがたにとって、わなとなり、落とし穴となり、あなたがたのわき腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなり、あなたがたはついに、あなたがたの神、【主】があなたがたに与えたこの良い地から、滅びうせる。」、「主があなたがたに命じたあなたがたの神、【主】の契約を、あなたがたが破り、行って、ほかの神々に仕え、それらを拝むなら、【主】の怒りはあなたがたに向かって燃え上がり、あなたがたは主があなたがたに与えられたこの良い地から、ただちに滅びうせる。」
「ただちに滅びうせる。」と言う。
【結論】
整理すると、(1)神は真実な方であることを覚えよう。(2)この神を第一にして、みことばを第一にして、(3)私たちの中から、むさぼり、偶像礼拝のゴミを捨てよう。そうすれば、日々新しくされて、祝福に満ちたクリスチャン生活、栄にみちたクリスチャン生活を送ることが出来るである。
―祈り―
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