【聖書個所】
黙示録1:3
【タイトル】
黙示録(2)「幸いな人」
【序論】
聖書は、「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」と言う。この「…は幸いである。…であるから。」という表現は、マタイ5章の「八福の教え、山上の垂訓」と同じ表現である。
マタイ5:3:「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」
これは原語的には「幸いなるかな、心の貧しい者は。何故なら、天の御国はその人のものだから。」というもの。「マカリオイ!…」=「幸いなるかな!」、英語では、「Blessed is …」で始まる言葉である。だから黙示録1:3も、「幸いなるかな(マカリオイ!)。この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は。何故なら、時が近づいているからである。」となる
。
何故、「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人」は幸いなのか?―それは、「時=V1:「すぐに起こることが起こる」終わりの時が近づいているから」です。だから、幸いなのだというのである。
私たちはこうして今黙示録を読むこと、聞くことを通して、この終わりの時代に生きている。だから、私たちは幸いな人であるが、そのことを、今日はもっと掘り下げて考えてみたい。「幸いな人」とはどんな人なのか?―3つのポイントで語られている。
【本論】
(1)「この預言のことばを朗読する者」は「幸いな人」です。
この箇所を詳訳聖書で見ると、「この預言の言葉を〔集会の中で〕朗読する人は幸い<幸福、うらやむべき>です。」となっている。「集会の中で朗読する人」、その人は集会の中の他の人々に聞かせることが出来る人であり、また自らも聞くことが出来る人。だから幸いなのだと言う。朗読すること自体ではなく、朗読によって、人が聞くことが出来、自らも聞くことが出来るから幸いなのだと言う。これはそのまま次の(2)「それを聞く人」に繋がって行く。
(2)「それを聞く人」は「幸いな人」です。
本当にみことばを聞く人は幸いな人です。何故なら、そこから信仰が生まれるからです。
ローマ10:17:「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです。」とあるように。
しかし、このみことばはそのまま「みことばを聞く人」は救われるということを意味しているわけではない。何度もみことばを聞いても救われていない人はいる。だからここに、次のポイントがある。
(3)「そこに書かれていることを心に留める人」は「幸いな人」です。
「心に留める人」とは、脚注によると「守る人」である。つまり、みことばを聞いて、それを心の中にしっかりと留め置いておき、消え失せないように、無くならないように、盗まれないように、しっかりと守る人のこと。また詳訳聖書によると、<それに注意を払い、それを深く心に留める>人のこと。
つまり、ただ無くならないように、盗まれないようにと金庫の中にしまい込んで置くのでなく、それに目を留め、心の中で何度も思い巡らすこと。前にも、「心に留める」ということは、咀嚼することだと言ったが、「心に留める人」というのは、そのように、みことばを深く理解し、悟る人のことである。
そのことを良く表わしているのが、イエス様が群衆に語った種蒔きの例え話。その最後のところでイエス様は彼らに、マタイ13:9:「耳のある者は聞きなさい。」と言った。これが大切。ただ聞くだけではなく、聞こうとする心、もっと知ろうとする心、悟ろうとする心が大切だというのです。
では、そのことを教えているイエス様の例え話の、弟子たちに話した解説の部分を読んでみよう。
マタイ13:16~23:「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
「みことばを悟る人」とは、詳訳聖書にあるように、みことばに注意を払い、それに深く心を留め、繰り返し繰り返し思い巡らす人。それから離れず一心に見つめる人のこと。そういう人は、豊かに実を結ぶというのである。
ヤコブ1:21~25:「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」
※心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れること。そして、思い巡らし、理解し、悟り、そして実行する人。そういう人は、この終わりの時代にあっても豊かな実を結ぶのです。100倍、60倍、30倍の実を結ぶのです。
【結論】
この時代、いろいろなことが起こる。しかし私たちはみことばによってそれらを退け、みことばを聞き、悟り、それを守り続けることによって救いの完成に至るのです。これが黙示録の主題です。
箴言5:7~14:「子どもらよ。今、私に聞け。私の言うことばから離れるな。あなたの道を彼女から遠ざけ、その家の門に近づくな。そうでないと、あなたの尊厳を他人に渡し、あなたの年を残忍な者に渡すだろう。そうでないと、他国人があなたの富で満たされ、あなたの労苦の実は見知らぬ者の家に渡るだろう。そして、あなたの終わりに、あなたの肉とからだが滅びるとき、あなたは嘆くだろう。そのとき、あなたは言おう。「ああ、私は訓戒を憎み、私の心は叱責を侮った。私は私の教師の声に聞き従わず、私を教える者に耳を傾けなかった。私は、集会、会衆のただ中で、ほとんど最悪の状態であった」と。
箴言5章で語られていることは、罪を男女の関係に例え、罪や悪との関わりに対する警告が語られている。そのようなことにならないように、私たちはしっかりと私たちの心を守り、そしてみことばを素直に受け入れて、そして悟り、実行して、救いの中を歩んで行こう。救いの実を結んで行こう!
―祈り―
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