【聖書箇所】
コロサイ1:24~29
【タイトル】
コロサイ(8)「パウロの喜び、私たちの喜び」
【導入】
メッセージ本文に入る前に、いきなりの質問で恐縮だが、「皆さんは何を喜びに生きているか?」余りに漠然とした質問なので、少し質問の内容を変える。「これさえあれば大丈夫!」という最低限のものから、「私はこのために生きているのだから、それが実現できれば最高!」という理想的なことまでを含んで、「これが私の喜びだ」と言えるものは何だろう?
少し古いデータだが、2013年に、全国約5,000世帯、約1万人を対象に行なわれた内閣府による「生活の質(QOL)に関する調査」によると、「人は何を基準に幸福を感じるか感じないか、言い換えるなら、何を基準に喜びとするか、喜びとしないか」を調べる調査データでは、次のようになっている。
2番目の「家計の状況(所得・消費)」と4番目の「自由な時間、充実した余暇」を除くと、1番目の「健康状況」と3番目の「家族関係」、5番目の「友人関係」、8番目の「職場の人間関係」、9番目の「地域コミュニティーとの関係」、そして10番目の「社会貢献」などに代表される「人間関係」というものが、人の幸福感、喜びに大きく関係していることが分かる。これは、「人の幸福度を決める要素」として、1938年~2015年までの75年間、1938年当時、ハーバード大学の学生だった人約700人を、調査開始後75年間追跡調査した結果によく適合する。その調査結果では、「人との良い関係が人を幸福にする。そして結果的に、健康が維持される。」というものだった。
皆さんはどうだろう?「あー、そうだそうだ。」と思われるだろうか。
何故初めに、このようなことを引用したかと言うと、その結果を含めて、今日開いた聖書箇所のパウロの言葉が、冒頭の質問、「私たちは何を喜びにして生きているだろうか?」言い換えるなら、「何を幸福に感じ、何を生き甲斐にして生きているだろうか?否、生きて行かなければならないだろうか」の答えを語っているからです。では、パウロは何と言っているか。
【本論】
Ⅴ24a:「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。」
「ですから」とあるので、その前の箇所では何と言っていたかというと、Ⅴ23b:「この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。」
パウロはここで、「この福音」というものに「仕える者となった」ので、それで、「あなたがた」=「コロサイ教会の兄姉」のために受ける苦しみがいろいろあっても、それでもそれを「喜びとしています。」と言う。「この福音」とは、この箇所で言うなら、Ⅴ21~Ⅴ22:「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、1:22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」という福音、グッドニュースです。
パウロは、先ずこの福音に仕える者になったので、どんな苦しみがそこにあっても、それを喜ぶと言うのです。仮令、福音の宣教にどんな苦しみや痛みが伴っても、その働きのゆえに、それをも喜ぶ(御霊の実の喜び)と言うのです。その喜びの根拠、理由、目的を、パウロは今日の聖書箇所の中で展開している。
(1)先ず、すべての福音宣教の働きは、教会の建て上げのためだから。
Ⅴ24:「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。」
パウロは、「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています」と言うが、その「喜び」は、パウロがここで、「キリストのからだとは、教会のことです」と言っているように、その「キリストのからだ」であるコロサイの教会のために、「私の身をもって」その「キリストの苦しみの欠けたところ」、これは、キリストの苦しみ=十字架の贖いが不完全だったということを言っているのではなく―統一協会はそう言う。2千年前に来たイエス・キリストは救いに失敗し、新約聖書も不完全だと―そのキリストの十字架と復活により、その後にキリストが建て上げようとしている、まだ完成していない、未完のキリストのからだの建て上げ、教会のからだの完成のための欠けの部分を「満たしているのです。」と言っているのである。決して統一協会が言うような「キリストの十字架には欠けがある。不完全である」ということを言ってのではない。自分の、自分たちの、教会の、私たちの働きは、まだ完成していない未完の教会の建て上げのためであり、そのための労苦を負っているのだ、と言っている。
それが、パウロの言う、Ⅴ25a:「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。」という福音宣教と牧会、教会の建て上げという務めのことであり、Ⅴ26:「これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現された奥義なのです。」だと言う。そして、その奥義がどれほど素晴らしいものであるか、ということを、Ⅴ27で語っている。
Ⅴ27:「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」
※キリストは、私たちを救うために十字架の贖いを成し遂げ、そしてよみがえり、そして、信じる者の内にあって働かれ、そして、私たちの救いを、一つのキリストのからだ、教会として建て上げて下さる、その働きを成し遂げて下さる。だから、キリストは、私たちにとっての栄光の望みです。
パウロはそのことを、ピリピの教会に対して、同じように福音宣教に預かる時に起こるさまざまな苦しみの中にあっても、そのことを喜ぶということで、次のように手紙を書き送っている。
ピリピ1:12~21:「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。1:13 私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、1:14 また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。1:15 人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。1:16 一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、1:17 他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。1:18 すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。1:19 というわけは、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、このことが私の救いとなることを私は知っているからです。1:20 それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」
Ⅴ20:「…、私の身によって、キリストの素晴らしさ現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。」の、「切なる願いと望み」とは、コロサイ1:27で言う、パウロにとっての「栄光の望み」、キリストのことです。だから、パウロは、Ⅴ21:「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」と言う。
(2)次に、それ(福音宣教による教会の建て上げ)はみことばを宣べ伝えることによって
Ⅴ25b:「神のことばを余すところなく伝えるためです。」
教会の建て上げには、神の言葉は必須です。ですから牧師は礼拝ごとに、このようにみことばを語っています。それも「余すところなく」です。「余すところなく」とは、すべてを語るということではなく、「語ったことがすべて理解できるように」ということです。皆さんどうだろうか?私の語ること、すべて理解出来ているだろうか?分からないことがあれば、ぜひ聞いてください。礼拝が終わった後でも、分かるように話したいと思う。それは建て上げるためだからです。
また、時には、「戒め」、つまり、間違ったことをしないように、間違った方に行かないようにと、警告することもある。Ⅴ28:「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。」とあるように。それは、やはり、「すべての人を、キリストにある成人として立たせる」=キリストの体を建て上げるためなのです。
(3)その建て上げは、私たちの内に働くキリストの力により
Ⅴ29:「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。」
牧会の働き、キリストの体を建て上げる働きには労苦が伴う。しかし、どんなに労苦が伴っても、他には比べうることが出来ないほど栄光に富んだ働きです。何故なら、私たちの救いのために栄光の御位を捨てられ、この地上に来て下さり、十字架にまで架かって下さった私たちの救い主、イエス・キリストのみからだの建て上げのために働くことが出来るのだから、これにまさる光栄に満ちた働きはないからです。その働きをするために、キリストご自身も私たちのうちにおられて、力強く働いてくださる。
【結論】
皆さんはどうだろう?何を喜びにしているだろうか?私たちはパウロが喜びとしたように、どんな労苦があろうとも、神の救いの計画である、栄光の望みであるキリストのからだの建て上げ、教会の建て上げを私たちの喜びとして歩もうではないか。これに勝る、この栄光に満ちた働きはないからである。
この世の働きは、一時的な働きです。やがてこの世の終わりが来ると、すべては巻き物が巻かれるように消え去ってしまう。(黙示6:14)しかしイエス様は、「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」(ヨハネ6:27)と言う。
また、主は私たちにそれぞれ、1ミナ(100デナリ)という「救い」を賜物として与えてくださった。(ルカ19:13~)また、その人の能力に応じて、1タラント、2タラント、5タラントという財産を賜物として預けて下さった。(マタイ25:14~)そこで語られていたのは、与えられたものに対する「忠実さ」だった。
私たちは、この与えられた賜物に対して感謝し、その賜物を用いて、忠実に主に仕えたいと思う。だから、今日学んだパウロの喜びのように、私たちも同じ喜びをもって、福音宣教のために、また福音宣教によってキリストのからだ=教会を建て上げて行くために、主に忠実に、喜びをもって仕えようではないか!
―祈り―
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