2026. 8.23 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- 8月30日
- 読了時間: 9分
【タイトル】:エペソ書(19)「夫婦に対して:主に従うように、互いに従いなさい。」
【聖書個所】
エペソ5:22~33:「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。5:23なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。5:24教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。5:25夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。5:26キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、5:27ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。5:28そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。5:29だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。5:30私たちはキリストのからだの部分だからです。5:31「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」5:32この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。5:33それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」
【前置】
前回から始まった「主に従うように、互いに従いなさい。」のメッセージの2回目。今日は、夫婦間における「主に従うように、互いに従いなさい。」である。
今読んだように、聖書は先ず、V22:「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」と妻に呼び掛けている。「呼び掛けている」というより「命じている。」次に、Ⅴ25~V29の箇所で夫たちに語っている。そして、Ⅴ30~V33がこの箇所の結論で、夫と妻の両方語っている。
そして読んで気付いたように、妻が夫に、また夫が妻に従う、夫の場合には「従う」という言葉ではなく「愛する」という言葉だったが、言おうとしていることは同じで、「夫が妻に従う」ということは、「妻のために自分を捧げる」という形で妻を愛するということです。その「夫と妻が互いに従いなさい。」ということの根拠が、夫婦両方の場合で、「キリストと教会との関係」の中で語られていた。
先ず、妻の場合を見てみよう。V22~V24:「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。5:23なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。5:24教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」とある。
また夫の場合では、Ⅴ25:「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」とある。
そして、その結論として語られている所が、V30~V33で、そこで語られているV32:「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」と言っている「偉大な奥義」というものですが、これがこの箇所の鍵で、これが分からないと、この箇所のみことばの戸が開かれない。何故、妻は夫に従うのか、何故夫は妻を愛するのかが分からない。
では、その鍵とは何か、それが、V31:「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」と、パウロがここで引用している創世記2章のアダムとエバのことである。今日は先ず、パウロが今日の箇所で「偉大な奥義」と言っている創世記2章のアダムとエバの箇所からメッセージを始めて行く。
【本論】
創世記2:21~24:「そこで神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。2:22神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。2:23人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」2:24それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」
これは、先ず初めに神が土から「アダム」、「アダム」とは「土」を意味するヘブル語「アダーマー」からの命名だが、神が初めに人であるアダムを造ったとき、Ⅴ18:「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」と言ったことからこのことは始まっている。神はあらゆる種類の獣と空の鳥を造って彼のところに持って来たが、どれも彼にはふさわしい助け手ではなかった。V21:「そこで」と神が造られたのが、彼に深い眠りを下し、寝ている間に造ったエバだった。
ここでヘブル語の話になるが、神が造った人のことをアダムと呼んでいたが、実際には、2章のこの段階では、未だ人はアダムとは呼ばれていない。最初に出て来るのは、創世記3:17で、2章のここでは、「イッシュ」と記されている。それは「男」という意味のヘブル語。そして、神が「イッシュ」から造られたエバ、これも最初に出て来るのは創世記3:20で、この2章では、「イッシュ」から造られた人という意味で、「イッシュシャー、略して、イッシャー」と言われている「女」です。そして、興味深いのは、英語の聖書では、「イッシュ」=「男」を「Man」といい、「イッシャー」=「女」は「Woman」という。何故英語では女を「Woman」と言うかというと、「Woman」は二つの言葉、「Womb」(「子宮」という意味)+「man」から成るからです。つまり、「イッシャー」は「命を宿す器官である子宮を持つ人」ということなのです。そして、さらに興味深いのは、男であるアダムは、自分から取られて造られた女を「エバ」(ヘブル語では、「ハッヴァ―」)と呼んだとあるが、その意味は、「いのち」ということなのです。すべてが関連しているのです。
このように造られた女に対し、男である人は、Ⅴ23~V24:「人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」2:24それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と言った。パウロはこれを、今日の箇所、エペソ5:31~32で、「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」5:32この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」と言ったのです。それは何故か?―それが今日のメッセージの中心点で、男である人にふさわしい助け手である女を造る時に、男はどうであったか?
創世記2:21:「深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。」とある。これがパウロが言う奥義であって、これはキリストの十字架上の贖いの死を表わす。「眠り」は、聖書ではしばしば「死」を指す。(ヨハネ11:11~13)
※ここに、今日の箇所で、夫婦の関係の中で妻は夫を敬い、従い、夫は妻を愛する、それも自分のからだのように愛しなさいという根拠があるのです。私たち教会にとっての頭であり、夫であるイエス・キリストは、私たちを贖い、ご自分の妻として下さるために十字架で死んで下さった。このことを根拠に、神はキリストと教会、つまりキリストと私たちとの関係である「夫婦の関係」の中で、妻に対して、Ⅴ22~V24:「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。5:23なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。5:24教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」と言い、また夫に対しても、Ⅴ25~V29:「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。5:26キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、5:27ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。5:28そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。5:29だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。」と言ったのです。
アダムは、自分にふさわしい助け手であるエバを前にして、創世記2:23:「…。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」と言った。つまり、自分と同じ体のものであると。だから聖書は夫に、エペソ5:28~29:「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。5:29だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。」と言うのです。
【結論】
V30~V33:「私たちはキリストのからだの部分だからです。5:31「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」5:32この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。5:33それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」
V30:「私たちはキリストのからだの部分だからです。」教会論的にもそうであるし、夫婦としても、同じ体として、それぞれがそうです。
V31~V32:「「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」5:32この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」
今まで語って来たように、夫婦の関係はキリストと教会との関係です。アダムであるキリストが深い眠り、つまり十字架の死によって信じる者をご自分のからだ、教会として下さったように、その時キリストも、またキリストを信じた私たち教会も、「父と母を離れ」、つまり、この世に対して死に、そして、キリストの復活と共に、私たちもキリストと一体になって生きるものとなったのです。それが洗礼式の意味でもある。(ローマ6:8)
※だから、私たちは霊的な意味で、この世に死んで(この世である父と母を離れ)キリストと一体となった者です。
V33:「それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」
ここで最後に重要なことを言う。それは、夫婦の関係の中で妻が夫に従うのも、夫が妻を愛するのも、相手がそれをするのに相応しいからだ、ということではないということです。この世では、「〇〇してくれなかったから、しなかったのだ。」、或いは「したのだ。」とか、「〇〇したから、したのだ。」とか「しなかったのだ。」というように、何かを条件に、「したこと、しなかったこと」の理由付けをする。しかし聖書は私たちに、「主に従うように」というのです。イエス様は無条件で、私たちのために十字架の贖いをして下さった。聖書はそのように、「主に従うように、互いに従いなさい。」と言うのです。
夫は妻を、主がすべての人になさったように、自分と同様に愛そう。妻も夫を、主がなさったように、自分の敬うように、夫を敬おう。
―祈り―
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