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2026. 7. 5. 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

  • 7月12日
  • 読了時間: 6分

【タイトル】

神の召しに生きる―神中心の生き方―

【聖書個所】

イザヤ43:21:「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」

【序論】

 この聖句は、イザヤ43:1:「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、【主】はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、【主】はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』」と言ってⅤ28まで、途中、皆が良く知っている聖句、Ⅴ4a―b:「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」や、Ⅴ18~V19:「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。43:19見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」ということを語りながら、この章のテーマとして、「私があなたの造り主であり、私はあなたの救い主である。」ということを語っている聖句です。そして、今日の聖句が、その神と私たちとの関係の中で、神は何のために私たちを造られたのか、また救われたのか、つまり、召されたのかということを明らかにしているところである。また、Ⅴ7もそのことを明らかにしている。V7:「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」

 この二つの聖句に、神が私たちを造られた目的、神が私たちを救われた目的、召された目的、神のみこころ、神の御計画が明らかにされている。今日はこの二つの聖句、特に、初めの今日の聖句、V21:「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」から、今日のメッセージ「神の召しに生きる」について語る。

【本論】

 神が私たちを造られた目的、神が私たちを救われた目的、神が私たちを召された目的は何だと聖書は言っているか?―聖書は、神が私たちを召して下さった目的は、私たちが、神の栄誉を宣べ伝えるためであると言っている。

V21:「わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。」

 「神の栄誉を宣べ伝える」とは、どういうことか?―「神の栄誉」とは、「神の栄光と誉れ」です。簡単に言うと、「神の素晴らしさ」です。「宣べ伝える」とは、「宣伝する。明らかにする。広く伝える」ということ。

 最近は買物をネットですることがある。その時は大抵、口コミ欄とかレビュー欄を見て参考にする。何故なら、口コミ、レビューで「素晴らしい」とあれば、それは「素晴らしい」と、疑い深くなければ、一応考えて買うことが出来る。だから、消費者はメーカーの「素晴らしさ」つまり「栄誉」を宣伝する、明らかにする、広く伝える者です。

 それと同じように、私たちは神に召された者として、神の栄誉を、素晴らしさを宣べ伝える者なのである。神は私たちをそのために造ったと言う。それが今日の聖句です。

※ここに、私たちの造られた目的、召された目的、存在意義、存在目的がある。しかし、多くの人はそれを知らないので、また、知らないことも知らずに生きている。つまり、的を外して、何のために生きているのか、何のために働いているのか?・・・を分からずに生きている。聖書はそれを罪と呼んでいる。多くの人はその罪の下に生きているのである。だから、私たちを造った、私たちを召された神の素晴らしさも知らず、神の素晴らしさを宣べ伝えることも、明らかにすることも出来ないでいる。

 聖書が次のように言う通りです。

ローマ3:23:「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」

 「栄誉を受けることができず」とは、「栄誉に達することが出来ず」ということ、栄誉というレベルがあって、そこまで行かないということ。だから、栄誉を宣べ伝えることも、栄誉を明らかにすることも出来ないということです。ちょうど、故障した車を自分勝手に直そうとして、壊してしまうようなもの。それでは車を造ったメーカー、創造者の栄誉、素晴らしさを現わすことは出来ない。

※しかし、ここにグッドニュースがある。私たちが、私たちを召された神の栄誉を、素晴らしさを宣べ伝えることが出来るためのグッドニュースがある。それが、イエス・キリストの十字架と復活による救いです。先ほどのみことばの後に、次のみことばがある。

ローマ3:24:「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

 「神の恵み」とは、私たちには受ける資格も権利も無いのに、神が一方的に与えてくれる贈り物のこと。その神の恵みにより、「キリスト・イエスによる贖いのゆえに」というのは、「キリストの、私たちの罪からの救いのために身代わりに架かってくれた十字架と復活のみわざのゆえに」ということ。「価なしに義と認められる」とは、「恵みにより、栄誉を受けることが出来るようになった。栄誉に達して、栄誉を宣べ伝えることが出来る者になった」ということ。

※これが、私たちの救いにより、私たちを召された神の栄誉、素晴らしさを宣べ伝えるということです。

【結論】

 そして、そこに結論として一番重要なことがある。それは、私たちの存在意義、存在目的は、神の栄誉を宣べ伝えるためであり、神の素晴らしさを明らかにして行くためであるということだったが、それがそうなるために重要な一つのことがある。それが今日のメッセージの結論です。それは、私たちは、その神の私たちを召した目的が達成されるために、私たちは自分中心に生きるのではなく、神中心に生きると言うことです。そのことがよく伝えているのが、ルカ10章にある「良きサマリヤ人」の譬えを通して語られていること、また続けてその後の、イエス様がマリヤとマルタの家を訪ねた時の中で語られているメッセージです。

 イエス様は、「良きサマリヤ人」の譬えを通し、「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることが出来るか?つまり、神の栄誉を宣べ伝えることが出来るか?」と訊いた律法の専門家に対し、何と答えたか?―イエス様は、「では、私の隣人とは、だれのことですか。」(V29)と尋ねた律法の専門家に、譬え話の後、「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」(V36)と訊ね返し、その答えを得た彼に、「あなたも行って同じようにしなさい。」(V37)と言った。イエス様はこの譬え話により、彼の「私の…」という自己中心の生き方を、人中心、神中心の生き方に変えたのである。また、その後のマルタとマリヤとの関りの中で語られているメッセージもそうである。マルタのように自己目的の満たし、つまり自己中心の生き方でなく、マリヤのようにイエスを満足させる神中心の生き方をするところに、神の栄誉が現わされているということが分かるのです。

 今日は、私たちは神の召しに生きているのかどうか、神中心の生き方をしているか?それとも自己中心の生き方をしているか、吟味してみよう。その一つの基準が「私の…」ではなく、「私は誰かの…か」という見方、考え方で生きているかどうかである。暫く心を探り、吟味してみよう。

―祈り―

 
 
 

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