2026. 6.28. 礼拝メッセージ:金子辰己雄師
- 7月5日
- 読了時間: 7分
【タイトル】
霊的戦い(16)「戦い終えた後の、完全なる勝利」
【聖書個所】
ヘブル4:10~13:「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。4:11ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。4:12神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。4:13造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」
【前置・報告】
これまで、エペソ6章に記されていた霊的武具について5回に分けて学んだ。今日からは、またさまざまなテーマで霊的戦いについての学びをして行く。
何度も言うことだが、私たちはクリスチャンになった瞬間から、否が応でも悪魔との戦いの場に置かれる。悪魔が何とかして私たちを神から取り戻そうと、さまざまな武器(①偽り、欺き、②誹謗、中傷、告発、③不安、恐れ、④目の欲、肉の欲、金銭欲、⑤無関心、無感動等)を使って私たちに戦いを挑んで来るからである。悪魔は神とは戦おうとはしない。負けることが分かっているから。否、もう既に神に対しては敗北しているからである。
イザヤ14:12~15:「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。14:13あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。14:14密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』14:15しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」
そして、その通りになった。神の言葉は明確にそのことを語っている。
ヨハネ16:8、11:「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」、「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」
ならば、どうして今もなお霊的戦いがあるのか?―それは、私たちが未だ悪魔とその勢力に対して完全勝利をしていないからです。神は悪魔に既に完全勝利しているが、私たちの勝利はこれからであり、未だだからです。なので、そのための学びを続けて行こう。
そのために今日は、ヘブル4:10~13から、「戦い終えて後の、完全なる勝利」と題して学ぶ。
【本論】
V10:「神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」
このみことばは、Ⅴ3~Ⅴ4を受けて語られているみことばである。
V3~V4:「信じた私たちは安息に入るのです。『わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。』と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。4:4というのは、神は七日目について、ある個所で、『そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。』と言われました。」
この「安息」とは、神が創造のみわざを終えて7日目に休まれたという意味の安息と共に、「すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」という永遠の「七日目」、つまり、「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)と言われている、創造のみわざが終わった後の、そして、その後の新天新地の完成、私たちにとっての「救いの完成」、「完全な安息」を意味する「安息」である。なぜなら、その「新天新地の完成」、私たちにとっての「完全な安息」のところには、もう霊的戦いも、苦しみも悲しみも涙も痛みもなく、完全勝利しかないからです。
黙示録21:1~4:「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。21:2私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。21:3そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、21:4彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」
※ハレルヤ!何という安息、何という救いの完成、何という勝利だろう!―私たちは信仰によってここに入るのである。否、もう入ったのである。もう、汗も涙も流すことなく、苦しみから来る叫びも上げることはないのである。ところが、次のV11に行くと、「あれ?」と思うことが記されている。
V11:「ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」
安息に入り、自分のわざを終えて休んでいるはずなので、どうして「私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。」と言うのか?どうして「力を尽くして努め、頑張れ、努力しろ!」というようなことを言うのだろうか?―しかしこれは、「安息に入るためには信仰だけでは駄目で、信仰の他に努力することが必要なのだ。」ということを言っているのではない。これは、信仰によって入った安息から落後することがないように、その信仰に留まり続けるように努力しなければならないということを言っている。
※ここに先ず、悪魔とその勢力との霊的戦いにおいて、私たちが完全勝利を得るために必要なことが語られている。それは、「信仰を保ち続ける」ということである。
「もう信じて救われたからいいんだ。」ということではなく、その安息に留まり続けるために、信仰を保ち続けなければならないということである。その具体例が、エジプトを出た民の、荒野での不従順のゆえに、つまり信仰を保ち続けることが出来なかったゆえに、約束の安息に入れなかったということを語り、しかし、それでも神は何度も悔い改めのチャンスを与えるために、そのような民に対して、心を頑なにせず、従順な心で信じ続けるようにと、ヨシュアやダビデを通して語ったということが記されていたのである。(ヘブル4:5~9)
次に、その信仰を保ち続けるために必要な霊的武具について語られている。それが、Ⅴ12である。
Ⅴ12:「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」
つまり、神のことばが私たちの信仰を保ち続けるためには必要だということ。それにより、神とみこころと私たちの思いとの判別を神の言葉はしてくれるからだというのです。
詩篇119:130:「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」
神の言葉は光です。私たちの心は創世の初めの時のように、混沌としている。いろんな考えが浮かび、やみのようになってしまうことがある。何故なら、この世を悪魔が支配しているからである。だから、闇の支配下にいる私たちには光が必要である。そして、その光がみことばなのである。
クリスチャンが悪魔に敗北するのは、この光であるみことばがないからです。光があれば、悪魔は私たちに勝つことが出来ず、退いて行くのである。
※霊的戦いにおける敵は、悪魔やその手下とは限らない。光であるみことばが無いために敗北し、そのことさえも知らないでいる私たちの無知が敵になる場合もあるのである。
ホセア4:6a:「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。」
だから、もう無知であるのは止めよう。みことばの光をいただいて、悪魔とその勢力に勝利しよう。それらのことを結論として語られているのが、V13である。
【結論】
V13:「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」
神がすべてを見ておられるので、神がすべてを治めておられるので、私たちはただ、この神の前で神に降参し、神に委ね、自分の悟りに頼らず、神のみことばに、神の知恵に、神の主権に委ねて歩むこと、これが霊的戦いにおける勝利の鍵です。その鍵である信仰をもって歩み続ける時、やがて私たちは信仰の戦いを終えた後の、完全な勝利、完全な安息に入るのです。否、もうすでに霊的には入っているのです。このことは本当に不思議である。
ローマ11:33~36:「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。11:34なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。11:35また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。11:36というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」
この神に従い続けて行こう!
―祈り―
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