【聖書個所】
ローマ8:14~17
【タイトル】
「私たちはキリストとの共同相続者です」
ローマ8:14~17:「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
【序論】
パウロは、Ⅴ14:「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」と言う。そして続けて、Ⅴ17:「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」と言っている。
ここに、キリスト・イエスを信じる信仰の結果相続する相続財産というものがどんなものであるのかが明らかにされており、それについての重要な真理が語られている。それは、私たちには主イエス・キリストとの共同相続財産があるということ。つまり、私たちの相続する財産はキリストも相続するものであり、キリストが相続するものは私たちも相続するものであるということです。そして、これは、将来、死んでよみがえって、天に行ってから受ける相続財産ではなく、今、この地上で受ける、受けている相続財産だということです。ではそれはどのようなものか、何を私たちはキリストと共に相続するのか?―聖書はそこには3つのものがあると言う。
【本論】
(1)「神の子ども」という立場、身分を共に相続する。
初めの、V14:「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」の「神の子ども」の「子ども」は、「大人」に対する「子ども」、英語で言うなら、ChildrenとかChildではなく、原語の聖書では「υιος」(ユイオス)となっていて、これは、英語のSonsとかSonの「子ども」のことで、父と子の関係における「子ども」を指す言葉です。因みに、英語のChildren、Childが使われている聖書個所は、マルコ10:15:「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」のように、「大人」や「成人」に対する「子ども」、「幼子」を意味する「παιδιον」(パイディオン)と言う言葉が使われている。だからパウロが言っているイエス・キリストを信じて神の子どもとされたという「神の子ども」というのは、「神に対する子ども」ということ。パウロはそのことを分かりやすく、人を恐怖に陥れる奴隷の霊と比較して、Ⅴ15:「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。」と言って、恐れることなく、大胆に、神に対して「アバ、父」と呼ぶことが出来る「神の子ども」にして下さったのだと言っているのです。
そのようにイエス様も神様のことを「わたしの父」と呼んだ。そのためにユダヤ人たちから殺されそうにもなったが。(ヨハネ5:17~18)
また、イエス様がひとりの人が悔い改めると天では大きな喜びがあることを伝えるために語られた放蕩息子の譬え話も、「神の子ども」という立場、身分がキリストとの共同相続財産であることを教えているものでもある。これが先ず、キリストと共に相続した神から与えられた相続財産である。
(2)「神の愛と神の喜び」を共に相続する。
先ほどの、ルカ15章の放蕩息子の譬え話も、一匹の羊の譬え話も、1枚の銀貨の譬え話もそうだが、キリストとの共有財産という意味では、公生涯を始める時に神がイエス様に語った言葉が、それを最もよく表わしている。
マルコ1:11:「そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」
イエス様にとって、私たちの罪の贖いのための公生涯を始めるに当たり、この神からの言葉はどんなにかイエス様の力、励まし、支えになったことだろう。そして同様に、この言葉は私たちのクリスチャン生活を送るにとっても、力になり、励ましになり、支えになる言葉である。相続していなければならない言葉である。何故なら、V17:「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」とあるように、私たちもキリストと共に苦難を相続するからです。
パウロは、ピリピの町に行かれた時、罪を犯していないのに鞭うたれて牢につながれた。そのような苦しみの中でも、彼は大きな声で賛美をすることが出来た。どうしてか?―それは、神の愛と喜びが注がれていたからである。
ローマ5:1~5:「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
※私たちのクリスチャン生活にも、苦難、患難、試練がある。しかし、神がイエス様に語られたように、私たちにも同じ神の愛と喜びが注がれている。この相続財産をキリスト共に相続して歩んで行こう。
(3)神の栄光、キリストの栄光の姿を共に相続する。
V17:「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」
私たちは救われて神の子になり、キリストと共に苦難を受けるだけでなく、栄光を共に受け、栄光の姿へと造り変えられるという相続財産を共に受け取っている。これは、今年の私たちの目標ではあるが、神がそのことをして下さるのです。何故なら、それは救いと共にある私たちの相続財産だからです。この約束は決して変わらない。その約束を信じて、歩み続けた信仰の先達者の姿がヘブル11章で、アベルから始まって、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセというように、その他の人々のことも含めて語られているが、その結論として、次のように記されている。
ヘブル11:39~40:「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。」
【結論】
神は恵みによって私たちをキリストとの共同相続人として下さった。①神の子としての立場と身分、②神の愛と神の喜びを存分に受けるという相続財産、そして最後には、③神の栄光の姿、キリストの栄光の姿へと変えられると言う相続の恵みを与えて下さった。だからどんなことがあっても、エサウのように、その他の信仰の脱落者のように、長子の権利を捨て、神の子としての立場、身分を軽んじることが無いよう、賛美と感謝をささげて、最後まで神への堅実さを保って歩み続けよう。
―祈り―
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