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2023.9.10 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

ダニエル7:1、28

【タイトル】

ダニエル書(11)「神の夢と幻に生きる人」

【前置】

 ダニエル書の終末預言の箇所に来た。この箇所は、この7章から始まって12章で終わるが、この箇所の特徴的なところは、これまではネブカデネザル王の見た幻(2章と4章)や、ベルシャツャル王が宴会の席で見た文字(5章)のダニエルによる解き明かしが記されていたが、この箇所では、ダニエル自身が見た夢や幻の神による解き明かし、神による啓示が記されていることである。(7章~8章)。また、彼より少し前から預言活動していたが、彼とは殆ど同時代と言ってよいエレミヤの文書から神の啓示を受け取ったことや(9章)、彼が再び見た幻から終末の大患難の出来事と、その後の救いの完成に関わる預言までが10章~12章で語られている。そのように、今この時代に生きている私たちに対して、重要なメッセージが語られているところである。


 今日は、ダニエルの見た夢・幻とその神による解き明かしについてではなく、その夢・幻を見たダニエル自体に焦点を当ててメッセージを語る。テーマ、タイトルは「神の夢と幻に生きる人」、言い換えるなら「神の言葉と啓示に生きる人」である。ダニエルの夢・幻の解き明かしについては次週以降で語る。​

【本論】

ダニエル7:1:「バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った。」​

 バビロンの王ベルシャツァルの元年とはBC553年のこと。6章ではそのベルシャツァル王を滅ぼダリヨス王の時代のことが語られていたが、7章では、再び時を遡ってベルシャツァル王の時代のことが語られている。ダニエルはその王の元年に一つの夢、幻を見て、それを書き記し、そのあらましを語ったと言う。「そのあらましを語った。」というのは、「そこに誰かが居て、その人に語った」ということではなく、「その夢を書きしるし」とあったように、この聖書に残っているように「書き記した」ということである。​

 さて、「夢を書き記す」ということはとても重要なこと。特に預言者にとってはそうである。何故なら、神は夢や幻を通して預言者に語るからである。​

ハバクク2:1~3:「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。【主】は私に答えて言われた。幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために。この幻は、定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。」

 これはバビロンによる南ユダの滅びについて預言したハバククの言葉。だから、ほぼエレミヤと同時代に活動した預言者であり、ダニエルとはそれほど時代が離れていない人物である。彼は預言者の務めについて、「預言者は神からの言葉を、見張り所に立つ見張り人のようにしっかりと見張り、神の言葉を見落とすことなく、見誤ることなく、また聞き逃すことのない者でなければならない者であること。そして、それをここではそれを「幻」と言っているが、その神の言葉、預言、啓示、幻を「板の上に書いて」、つまりダニエルが言うように「書き記して」、それを「これを読む者が急使として走るために」とあるように、それを語り、それを聞いた者がそれに相応しく応答することが出来るようにさせること」それが預言者の務めであるという。だから預言者の務めはとても重要であり、責任が重いのである。牧師もそういう意味ではとても重要であり、責任が重い。そのため、パウロもエペソ人への手紙の中で、「私のためにも祈って下さい。」(6:19~20)と書き送っている。私のためにも祈って下さい。​

 しかし、この預言者の働きは預言者や牧師だけの働きではない。今日、私は皆さんにはっきり伝えたい。もし皆さんが、「私はクリスチャンです。私は神を信じています。」と言うならば、神様からみことばを受け取って、それを語ることは、語るだけでなく、その受け取った御言葉に従って生きることは、預言者、牧師、伝道者、教師と言った働きや立場に関係なく、すべてのクリスチャン、すべての神の民の働きであり、責任です。何故?―それはペンテコステの出来事以来、つまり教会の置かれている終わりの時代、神の御言葉は私たちに、幻を通して、夢を通して語られているからである。私たちは今、神のことばを、夢、幻として見る時代に生かされているのである。これは今日の私たちの特権です。旧約の時代、聖霊は限られた人たちだけに注がれていた。しかし今、教会の終わりの時代は、聖霊の降臨によって、神の言葉を夢、幻として見ることが出来る時代になったのです。その時代が来たのです。その時代に今私たちは生かされているのである。​

使徒2:17~18:「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」​

 これはヨエル2:28~29の預言の成就をペテロが語った言葉だが、彼はこの理解をどこから得たのだろう?―彼はこういうことが起こることを予め知り、そのために聖書を勉強して、そして語ったのだろうか?―いいえ、突然下った聖霊により、彼はその理解が突然与えられ、そして語ったのである。まさに彼が言う通り、ヨエルの預言が成就して、彼はその預言成就の中で語ったのである。今、そのような預言成就の時代が来た。私たちは今その時代に生かされているのである。​

※このように、預言成就の中に生きること、みことばの実現の中に生きること、これが聖霊の時代に生きるクリスチャンとしての、「そうならなければならない」という「ねばならない」ではなく、当然あるべき姿なのである。​

 しかし、実際にはなかなかそうならない。神の言葉を夢、幻を見るように受け取り、それを語り、その御言葉、夢、幻、神の啓示によって生きることがなかなか出来ない。どうしてか?―その一つの答えが今日のもう一つの御言葉の中にある。ダニエルはこの夢、幻を見て「どうした?」と書いてある?​

ダニエル7:28:「ここでこの話は終わる。私、ダニエルは、ひどくおびえ、顔色が変わった。しかし、私はこのことを心に留めていた。」​

 彼は、彼の見た夢、幻の解き明かしを御使いによって、言い換えるならば、神によって解き明かされた。そのため、その内容、それは来週になるが、その内容を知って、「ひどくおびえ、顔色が変わった。しかし、私はこのことを心に留めていた。」と言う。それは、「恐ろしくなって、隠していた。」という意味ではなく、「これは一体何のことだろう?」と、事の次第が分からずに困惑したけれど、心の中でずーっと考え、思い巡らしていた。」という意味のこと。​

ルカ2:50~51:「しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」​

 ユダヤの成人式である13歳になる前に、イエス様が12歳になって、その準備のためにエルサレムに上って行ったその帰り、ヨセフもマリヤもその一行の中にイエス様はいると思ったが、居ないことに気付いてエルサレムに戻り、イエス様を宮の中で発見すると、イエス様は彼らに、「どうしてわたしを捜すのか。わたしが自分の父の家、つまり宮に居ることを知らなかったのか。」という言葉を聞き、答えた言葉がこれ。マリヤはイエス様の言葉の意味が分からず、何を言っているのかと心に留めておいた。「考え、思いを巡らしていた。」ということ。同じことである。​

※これは、「みことばを聞いて、読んで思いを巡らす。よく親しく味わって、知る」ということ。そして「祈る」ということでもある。

※「みことばと祈り」は、私たちにとって、神を知るための唯一の手段。だから、これが欠けていると、神様を知ること、理解すること、親しくなることは出来ない。私たちが成長しないのは、このためです。​

 聖書は、​

マタイ4:4:「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と言う。そして、

箴言29:18:「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。」と言う。「律法を守る」とは、みことばを聞いて理解して、それに従うということ。そのためには、みことばを思い巡らし、みことばと親しく交わり、いつも心に留めておくことです。

 もし私たちが「何かを愛する」と言うなら、それは、その何かを「第一にする」、「優先順位の一番にする」、「一番大切にする」と言うこと。「愛する」ということはそういうこと。なので、もし「神を愛する」と言うのなら、私たちは「神を第一にし、神を優先順位の一番に置き、そして何よりも一番大切にする。」「神を愛する、神を信じる」ということはそういうこと。そのようにして、私たちの預言の成就、みことばの成就の中に生きるのです。

【結論】

 今は、夢と幻、神のことばのその成就を見ることの出来る時代、それを体験することが出来る時代、神を知ることの出来る時代です。だから、神を追いかけよう。求めよう。知ることを何よりも一番に生きて行こう。神の下さる夢と幻を見る、体験する、この身にみことばが成就することを求めて行こう!​

―祈り―




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