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2023. 8.13 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

エペソ2:14~17:


【タイトル】

平和の君イエス・キリスト


【前置】

 先週は台風6号の進路、また猛暑のため、それ以外のことが余りニュースにならなかったような気がするが、先週日本は、第2次世界大戦、太平洋戦争の終結に先だった起こった広島への原爆投下(8月6日)、長崎への原爆投下(8月9日)を覚え、それぞれの地で平和記念式典が設けられた。そして、東京では今年も8月15日に、天候の多少の心配があるが、全国戦没者追悼式が例年のように日本武道館で開かれる予定である。


 今年は終戦78年目。78年間、国内外において、所謂戦争がないというのは、日本の歴史では、縄文、弥生、古墳時代(紀元前15世紀頃~紀元4)などの、文献として資料が残っていない時代を除いて、紀元5世紀の飛鳥・奈良時代以降、徳川幕府が日本を治めた265年間の時(西洋でいうならば、パックスロマーナ(ローマによる平和)の200年間(BC27~AD180)のようなもの)以外、無いのではないか?


 今日は、このように戦争がないという意味では平和な時代を過ごしている私たちだが、日本国外を見渡すと、依然としてウクライナにおいては戦争が続けられ、スーダンやエチオピア、そして最近ではニジェールでも内戦が起こるかもしれないような情勢になっている。


 そんな中で今日は、日本の78回目の終戦記念を覚えて、世界各地の戦争の終結を祈ると共に、平和というものについて考えてみたい。聖書では、平和とは何であると言っているか?聖書が言う平和、神が求める平和とは何であるのか、一緒にみことばから考えて、そして、その実現のために一緒に祈って行きたい。


【本論】

 平和とは、先ず、


(1)神との平和です

 このことは、神との平和、神との間で罪の赦しがなされ、神との間で和解が与えられたクリスチャンでなければ言えないことです。世の多くの人は、平和と言うと、国と国との争い、人間と人間との争いのない状態を思い浮かべるが、聖書は、先ず神との平和が第一の平和であると言っている


エペソ2:14、16~17:「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし」、「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。


V17:「それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。」とあるように、先ず、神との和解=神との平和が第一なのです。


 神との和解、神との平和とは、V14~V15bで、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。」とあるように、イエス様が来て下さり、私たちの代わりに罪を負い、神と私たちとの間にあった隔ての壁を打ちこわし、御体おいて、敵意を廃棄して下さったということ。すなわち、V15b:「敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。」とあるように、私たちを罪ある者として神に訴える敵意、律法から私たちを解放して下さった、その敵意から来る訴えを廃棄して下さった、取り除いて下さったということである。


 どうやって?―十字架によってです。エペソ2:16:「また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。とある通り。両者というのは、Ⅴ11~V13を読んで分かるように、契約の民であるイスラエルと、その契約の外にいた異邦人である私たちのこと。つまり、全人類が十字架によって、敵意から、罪の指摘から解放され、神との和解、平和が与えられたのです


※だから今、私たちはローマ5:1で言うように、神との平和を持っているのです。


ローマ5:1:「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。


※ハレルヤ!だから、この世のどんなものも、私たちを神の前で罪ある者として責めることは出来ない。私たちは完全に罪赦された。完全に自由になった。完全に神の子どもになったのです。


ローマ8:33~39:「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」ハレルヤ!


(2)次に、平和とは、人との平和です

V17:「それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。


 これは直接的には、先ほど言ったように、「遠くにいたあなたがた」というのは、異邦人である私たちのこと。そして「近くにいた人たち」というのは、ユダヤ人のこと。つまり、すべての人との間の平和を宣べられたのです。


 イエス様が十字架に架けられた時、イエス様の頭上には、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」という言葉が、へブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていた(ヨハネ19:19~20)。すなわち、イエス様は全人類の救い主として十字架に架けられたと言うわけである。イエス様はそのように、すべての人が十字架によって和解を得、平和を持つことが出来るように、十字架の上で贖いを為して下さった。


※人との平和には、いろんな人間関係における平和、和解が含まれている。夫婦関係での平和、和解、親子関係での平和、和解、兄弟姉妹の関係での平和、和解、友人知人の間の平和、和解職場や学校など、社会の中での人間関係における平和、和解、そして、地域、町、国と国との間の平和、和解である。イエス様はその和解に関し、神から和解を受けた者として、無条件で和解することの大切さを教えている。


マタイ18:21~23:「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。『主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』イエスは言われた。『七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまで』と言います。このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。」と言って、この後、王に1万タラントの借金のあったしもべが、その謝金が免除されたにも拘わらず、そのしもべ仲間の内で、彼に100デナリ借金していたしもべの借金を赦さなかった男のたとえ話を通して、憐れみを受けた者の他の人を憐れむことの大切さ、赦しを受けた者の他の人を赦すことの大切さを教えられた。


※私たちもそのようにして、人との間に平和を作る者でありたい。次に、平和とは、


(3)自分自身との平和、和解である。

V14:「キリストこそ私たちの平和であり」とあるが、これは、「キリストこそ、私たちの、誰にとってもの平和である。」ということ。つまりキリストは、私たち一人一人の誰にとってもの平和の根源であるということです。ひとりひとりの中に、平和、和解、赦し、解放があるということです。


詩篇139:23~24:「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。


 ダビデは、「私の心を思い煩いから、傷をつける悪しき生き方から救って下さい。私の心を解放して下さい。」と祈っている。彼は、そのようなことをする自分の心に「引け目」(罪の意識、罪罪感)を感じ、「そんな状態から、私を救って下さい。」と祈っているのである。


 それとちょうど反対なのか、人に対する負い目、罪罪感、罪の意識である。だからイエス様は、「主の祈り」の中で、「私の負い目をお赦し下さい。私も私に負い目のある人たちの負い目を赦しました。」と教えられたのです。人に対する罪悪感、罪責感が「負い目」であり、自分に対する罪悪感、罪責感が「引け目」。イエス様は私たちを、そのどちらからも解放して下さるのである。ハレルヤ!


 最後に、4つめの平和とは、これは今日の聖句からではないが、大切なので追加する。


(4)環境、自然、万物との和解、平和です

 今年の熱波、山火事、南氷洋の氷の表面積が過去最少になっている等、私たちは、環境、自然との間においても和解、平和、癒し、回復を持たなければならない。そのために聖書は、安息日、安息年、ヨエルの年を設けている。それは、自然との間で平和、安息を持つためです。


レビ25:1~12:「ついで【主】はシナイ山でモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたが入ったとき、その地は【主】の安息を守らなければならない。六年間あなたの畑に種を蒔き、六年間ぶどう畑の枝をおろして、収穫しなければならない。七年目は、地の全き休みの安息、すなわち【主】の安息となる。あなたの畑に種を蒔いたり、ぶどう畑の枝をおろしたりしてはならない。あなたの落ち穂から生えたものを刈り入れてはならない。あなたが手入れをしなかったぶどうの木のぶどうも集めてはならない。地の全き休みの年である。地を安息させるならあなたがたの食糧のためになる。すなわち、あなたと、あなたの男奴隷と女奴隷、あなたの雇い人と、あなたのところに在留している居留者のため、また、あなたの家畜とあなたの地にいる獣とのため、その地の収穫はみな食物となる。あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。あなたはその第七月の十日に角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない。あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。これはヨベルの年であって、あなたがたには聖である。あなたがたは畑の収穫物を食べなければならない。


 土地の安息、人の安息に関する規定です。すなわち、人も環境もすべては神のものであって、すべての物は神のものとして、神と和解し、神との間に平和を回復しなければならない。万物は更新されなければならない。万物はそのことが起こるのを、実現するのを待ち望んでいる。それが神の最終的な救いの完成なのである。


ローマ8:18~19:「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。


【結論】

 イエス・キリストによる贖い、救いというのは、ひとり個人の罪の赦し、神との和解、平和に留まらず、①全人類と神との平和、②人と人との間の平和、③自分自身との平和、④神が造られた全被造物、万物と神との平和、人との平和を表している。そのように、キリストによる平和が全世界に、全世界の人々に、万物に来るように祈ろう!


―祈り―

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