【導入】
ネブカデネザル王は、またある時夢を見た。その夢はどんな夢かと言うと、それはまた不思議な夢で、彼はそれを見て恐れを覚え、またバビロンの知者に夢の解き明かしを求めたが、その解き明かが出来る者がおらず、初めの夢の時に解き明かしをしたダニエルに頼んで解き明かしが為された夢だった。
王が見た夢とはこういう夢だった。
V10~V17:「私の寝床で頭に浮かんだ幻、私の見た幻はこうだ。見ると、地の中央に木があった。それは非常に高かった。その木は生長して強くなり、その高さは天に届いて、地の果てのどこからもそれが見えた。葉は美しく、実も豊かで、それにはすべてのものの食糧があった。その下では野の獣がいこい、その枝には空の鳥が住み、すべての肉なるものはそれによって養われた。私が見た幻、寝床で頭に浮かんだ幻の中に、見ると、ひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来た。彼は大声で叫んで、こう言った。『その木を切り倒し、枝を切り払え。その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え。ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、地の草を獣と分け合うようにせよ。その心を、人間の心から変えて、獣の心をそれに与え、七つの時をその上に過ごさせよ。この宣言は見張りの者たちの布告によるもの、この決定は聖なる者たちの命令によるものだ。それは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。』」
ダニエルは、その夢が何を意味しているかが分かり、王にその解き明かしをすることを恐れたが、王はダニエルを信頼していたので、恐れずにその夢の解き明かしをするように告げた。(Ⅴ18~V19)
では、その夢が何を意味していたのか、ダニエルの解き明かし見よう。
V20~V26:「あなたがご覧になった木、すなわち、生長して強くなり、その高さは天に届いて、地のどこからも見え、その葉は美しく、実も豊かで、それにはすべてのものの食糧があり、その下に野の獣が住み、その枝に空の鳥が宿った木、王さま、その木はあなたです。あなたは大きくなって強くなり、あなたの偉大さは増し加わって天に達し、あなたの主権は地の果てにまで及んでいます。しかし王は、ひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来てこう言うのをご覧になりました。『この木を切り倒して滅ぼせ。ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、七つの時がその上を過ぎるまで野の獣と草を分け合うようにせよ。』王さま。その解き明かしは次のとおりです。これは、いと高き方の宣言であって、わが主、王さまに起こることです。あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれます。こうして、七つの時が過ぎ、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになります。ただし、木の根株は残しておけと命じられていますから、天が支配するということをあなたが知るようになれば、あなたの国はあなたのために堅く立ちましょう。」
ダニエルはその解き明かしにより、王に進言をする。
V27:「それゆえ、王さま、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を除き、貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう。」
ダニエルはこのように王に対して良い心を持っており、先ほど見たように、ネブカデネザル王もダニエルに対して良い心を持っていた。二人の関係は、王がダニエルにベルシャツァルという名前(ベルはバビロンで、「神」を意味する言葉)を付けたことからも分かるように、王としもべの関係ではあったが、互いに良い関係の中にあったのである。
しかし、ネブカデネザル王はダニエルの勧告に従わず、結局1年間その勧告を放置した結果、彼が見た夢のように、彼は王としての地位を失い、王の地位を失っただけではなく、「牛のように」(V32、Ⅴ33)草を食べ、また、Ⅴ33:「そのからだは天の露に濡れて、ついに、彼の神の毛は鷲の羽のようになり、爪は鳥の爪のようになった。」とある。権力ある者が、或いは財産を持ち裕福であった者がホームレスになったようなものである。
何故そうなったのか?―それは、彼が見た夢の中で、天から降りて来たひとりの見張りの者、聖なる者、それは御使いだが、その御使いが彼に語った言葉、Ⅴ17:「この宣言は見張りの者たちの布告によるもの、この決定は聖なる者たちの命令によるものだ。それは、いと高き方=神が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。」と言う言葉、また、その夢によってダニエルが王にした進言、Ⅴ27:「それゆえ、王さま、私の勧告を快く受け入れて、正しい行いによってあなたの罪を除き、貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう。」に従わなかった結果だった。遜らず、高慢であり続けた結果であった。彼は、あの夢の解き明かしを聞き、それによるダニエルの進言にも関わらず、1年もの間放置し、それだけでなく、Ⅴ30:「王はこう言っていた。『この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。』」と言って、バビロンの繁栄は自分の力によって為されたものであるかのように、神に栄光を帰せず、自分に栄光を帰せたのだった。それで彼は、その王としての栄光を失ったのである。
【本論】
さあ、ここから今日のメッセージの本題である。そのように彼は、彼の王としての地位、栄光を失ったが、今日の聖書個所にあったように、彼はその王位を回復した。どのようにして回復したのか?―彼が彼の王位を回復した時、その王としての栄光を回復した時、彼に何があったのか?―それが今日のメッセージのテーマである。それは;
V34a~b:「その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。」
※これが結論であり、今日のメッセージの中心である。「目を上げて天を見た。」―彼はバビロン王国の王として、天にまでの届く木のように成長して栄えていたが、その木は切り倒され、枝は切り払われ、葉も振り落とされ、まるで丸裸になったかのように、ただ丸裸になっただけではなく、人間の心を取り払われて、獣の心にされ、初めに見たように、まるでホームレスのように、これ以上底がない、どん底の状態に落とされた。そうなると後はどうなるか?―そのままそこで滅びるか、あとはそこから這い上がるかである。しかし彼は、そのどちらでもなかった。彼はそこで、「目を上げて天を見た。」のである。それが彼の回復の時だった。
しかし彼の回復は、「ただ元の状態に戻る」というだけの回復ではなく、それ以上のものだった。
V36:「私が理性を取り戻したとき、私の王国の光栄のために、私の威光も輝きも私に戻って来た。私の顧問も貴人たちも私を迎えたので、私は王位を確立し、以前にもまして大いなる者となった。」
※ここに、聖書的回復、私たち、神を信じる者、神に救われた者に約束されている預言、このネブカデネザル王の見た夢で示されている神様の御計画、御心がある。そのため、神は御自身の御計画の成就、御心の成就のために、御自身にとって残す者を用意されるのである。それが、Ⅴ15~V16(V33)で語られていた「根株」である。最後まで刈り取らず、残されている根株である。この神は根株を残されるということは、神様の救いの計画に関わる「エッサイの根株」(イザヤ11:1)にも通じるもの。
しかし、このように全人類の救い、万物の回復という大きなことでなくても、私たちひとりひとりの生涯に関しても、神は私たちに「回復の時」を設けておられるのである。神があのネブカデネザルにどん底があり、またその後の回復があるように、神は私たちのために、「根株」として私たちを残しておられるのである。それは、「目を上げて天を見る」ため。そのストーリーは、ヨブの生涯にもあったし、例え話の放蕩息子の中でも見ることが出来た。そこに神の御計画、御心があるのです。
【結論】
私たちも、この神の御計画、御心を知って、どん底に至らなくても、いつも「目を上げて天を見る」者でいよう。それはまた言い換えるなら、いつも真実で、公義と公正に満ち、愛と憐れみに満ちて変わることのない神を賛美し、そして遜って生きて行くということでもある。そうするなら、神を私たちをいつも神の栄光で満たし、私たちの栄光で満たして、そして高め、祝福して下さるのである。それが、神の私たちに対する御計画、御心であり、私たちの真の回復の時である。
V34c~35:「それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押さえて、『あなたは何をされるのか。』と言う者もいない。」
Ⅰペテロ5:6:「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」
―祈り―
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