【聖書個所】
ダニエル5:30~31(1~31):「その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺され、メディヤ人ダリヨスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ。」
【タイトル】
ダニエル書(9):「歴史に学ぶ、みことばに学ぶ私たちの人生」
【序論】
ある時、バビロンの王ベルシャツァルは、ネブカデネザル王が不思議な夢を見たように、不思議な出来事に遭遇する。その出来事のことについてはこれから話すが、その前に、ネブカデネザル王とベルシャツァル王との関係、バビロンの王位の変遷について簡単に見よう。
バビロン、正式に言うと新バビロニア帝国は、BC625年、ナボポラッサルという人物により、当時、この地域一体を支配していたアッシリヤ帝国からの分離独立を果たして建国する。その後、その息子のネブカデネザル(BC605~562年)がアッシリヤ帝国に代わってこの地帯一体を支配し、強大な帝国を築き上げる。BC586年に南ユダ王国が滅ぼされたのは、その頃のこと。そしてその後、エビル・メロダク(BC562~560年)、ネリグリッサロス(BC560~556年)、ラバシ・マルドゥク(BC556年に2カ月間)、ナボニドス(BC556~539年)という人物が王位を継いで行くが、今日出て来たベルシャツァルは、ナボニドスが王である時に、BC553~539年まで、摂政として、共同して国を治めるようになった。特に最後の三年間のBC542~539年の間は、ナボニドスがほとんだ隠居状態だったので、実際にはベルシャツァルが実権を握って国を治めていた。因みに、ベルシャツァルはネブカデネザル王の娘の子ども、つまり、孫に当たる。
今日の箇所は、そのベルシャツァルが王であった時の話であり、特に最初に読んだように、彼の死のこと、メディヤ人のダリヨスによって殺され、その王位を失うという彼の最期が記されているところ。また、当時の世界とその歴史を見るならば、それによって新バビロニア帝国は滅び、次のペリシャ帝国に移って行くという、オリエント、当時の世界の歴史の転換点が記されている所である。
【本論】
この箇所から今日は、「歴史から学ぶ、みことばから学ぶ私たちの人生」と題してメッセージを取り次ぐ。何故「みことばから学ぶ」となっているのか、それは、この歴史の転換・変遷が、既に私たちが学んで来たように、ネブカデネザル王の見た夢の解き明かしの中でダニエルが語った、当時の世界の歴史の転換が、神の預言の成就、神のことばの成就として語られているからである。言い換えるなら、世界の歴史、私たちの歴史、私たちの人生は、神が初めに、「光よ。あれ。」(創世記1:3)と言って、初めに神が光を造り、すべてを造られたように、この世界のすべては神の言葉によって造られたものであり、その神の言葉の成就・実現によって歴史は、そして私たちの人生は作られているということなのです。
※そう、私たちの人生は、神の言葉によって造られ、支配され、そして、その成就によって成し遂げられている。私たちはそのことを悟らなければならない。
へブル11:3:「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」とある通り。
その言葉によって造られ、支配され、導かれているこの世界の歴史、また出来事を、今私たちがこのように学んでいるのは、それを知ることを通して、私たちが神のみこころ、神の御計画を知り、そして今私たちはどのように生きたら良いかを知るためのものなのです。歴史のことだけを知りたければ、専門の歴史書を読めば良いし、大学に行って、専門の先生から習えばよい。しかし、私たちがこの聖書を学ぶのは、ただ歴史を知るためだけでなく、歴史の中に、みことばの成就を持って働いている神のみこころ、御計画を知るためです。そして、それによって今を生きるためである。
Ⅰコリント10:11:「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」とある通り。
その点、ベルシャツァルは残念ながらそのことを悟っていなかった。彼の14年間の在位期間を含め、全体で93年余りの短い新バビロニア帝国の歴史だったが、その中で、彼にもそのことが示されていたが、彼は歴史から、また彼の人生から、神の言葉を何一つ学んでいなかった。そのことを、ダニエルは彼の見た不思議な出来事の解き明かしの中で、彼にはっきり語っている。
V18~V24:「王さま。いと高き神は、あなたの父上ネブカデネザルに、国と偉大さと光栄と権威とをお与えになりました。神が彼に賜った偉大さによって、諸民、諸国、諸国語の者たちはことごとく、彼の前に震え、おののきました。彼は思いのままに人を殺し、思いのままに人を生かし、思いのままに人を高め、思いのままに人を低くしました。こうして、彼の心が高ぶり、彼の霊が強くなり、高慢にふるまったので、彼はその王座から退けられ、栄光を奪われました。そして、人の中から追い出され、心は獣と等しくなり、野ろばとともに住み、牛のように草を食べ、からだは天の露にぬれて、ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようになりました。その子であるベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。それで、神の前から手の先が送られて、この文字が書かれたのです。」
そう言って、彼の見た壁に記された文字の意味を解き明かした。
V25~V28:「その書かれた文字はこうです。『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』そのことばの解き明かしはこうです。『メネ』とは、神があなたの治世を数えて終わらせられたということです。『テケル』とは、あなたがはかりで量られて、目方の足りないことがわかったということです。『パルシン』とは、あなたの国が分割され、メディヤとペルシヤとに与えられるということです。」
彼の生涯の終わり(V26:「メネ」)と、彼の歩んで来た人生がどんなものであったか(V27:「テケル」)ということと、そして、国が二つに分割されること(V28:「パルシン」)を語った。
特に、2つ目の「テケル」と言う言葉は私たちにとって重要な言葉。それは私たちが、神が造られる歴史、神のみことばが成就するその歴史、私たちの人生の中で、それを見ながら、それを知りながら、私たちがどのように生きている者であるか、ということを示す言葉だからです。
神が御自身のはかりで計る私たちの目方(重さ、価値)というのはそのこと。詩篇の作者、ダビデは、その目方について、こう言う。
詩篇62:9:「まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。」と。
ここで、「はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。」という人たちとはどういう人たちか、それは、
Ⅴ10~V11:「圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それに心を留めるな。神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。」とあるように、「圧制に頼り、略奪に空しい望みをかけ、富が増えると、それに心を留め」、この世の成功、幸せは神によるものではなく、自分の力によるものであるかのように考える人たちのこと。だから、ダビデはこの箇所の前でこう言っている。
詩篇62:7~8:「私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ。」
つまり、すべてにおいて完全に神に信頼する人、その人が神のはかりにかけられるならば、目方の重たい人だということなのである。
【結論】
私たちはどうだろう?―私たちは何があってもどんなことがあっても、この聖書の神に信頼しているだろうか?―また、何をするにもどんなことでも、その神を信頼して、この聖書のみことばに忠実に生きているだろうか?
ベルシャツァルは、おじいさんのネブカデネザルがどんな人で、何を語り、何をした人物であったか、ダニエルが言ったように、王母が語ったように(V11)、知っていたはず、聞いていたはず(V22)。それなのに、彼はそこから何も学ばず、聞いていたこと、知っていたことを実行しなかった。高ぶっていたからである。―「神の前に高ぶる者は、低くされる。(目方が低くされる)」(マタイ23:12)
私たちはそうであってはならない。私たちもベルシャツァルのように、どう生きて行ったらよいか、聖書から教えられている、聞いている者です。しかし、教えられている、聞いている、聖書を読んでいるだけで、そのみことばに従わなければ、実行しなければ、ベルシャツァルと同じようなもの。神の計りで計られると目方の軽い者、そして何かがあれば、滅びる者、吹き飛ばされてしまう者となってしまう。
イエス様は、そのような者について、次のたとえ話で語っている。
マタイ7:24~27(ルカ6:47~49):「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
また、ヤコブも同様に、みことばを聞いて実行することの大切さを、次のように語っている。
ヤコブ1:22~25:「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」
※皆さん。私たちは歴史から学ぼう。御言葉から学ぼう。神は歴史の中に、また神はこのみことば、聖書の中に、私たちがどのように生きて行けば良いかをはっきりと語っている。だから、みことばに生きて行こう。聞くだけの者ではなく、実行する者とされて行こう。
―祈り―
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