【聖書個所】
Ⅰコリント11:23~31
【タイトル】
「新約の恵み―イエスの血による契約―」
【序論】
この箇所は、毎月行われる聖餐式の時の聖句箇所。今日は、この後行われる聖餐式が本当の意味で、意味のある聖餐式となるために、特に、Ⅴ25:「夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。』」とイエス様が言われた「わたしの血による新しい契約」、それは聖餐に預かるということであるが、その「血による契約」或いは、「聖餐」の持つ意味を一緒に見て行こうと思う。
何故なら、もしその意味も分からずにその血に預かる、つまり聖餐に預かるのなら、その聖餐は単なる儀式を行なうだけで、何の意味もなく、また、ただ意味がないだけではなく、聖書が言うように、Ⅴ27:「主のからだと血に対して罪を犯すことになります。」であり、Ⅴ29~V30:「その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」ということになってしまうからである。
だから、聖書は、Ⅴ28:「ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」と言い、Ⅴ31:「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。」と言うのである。
なので、この聖餐に預かる意味をよく理解して行きたいと思う。そうすれば、それによって、Ⅴ26:「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」ということを成就することになるのである。「主の死を告げ知らせる」とは、「主の死=十字架の意味を証しする、証言する」ということ。だから、そのことが実現するために、「聖餐に預かる」ということの意味、特に「血による新しい契約」に預かるということについてメッセージを語りたい。
【本論】
(1)先ずこれは、新しい契約、イエス様の血は、「永遠に変わらない、取り消すことの出来ない契約」である。
へブル9:11~12:「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」
へブル書の記者はこの前の箇所で、古い契約によって定められていた大祭司の役割について語り、それとの比較で、キリストによる贖いは永遠のものであることを語っている。
古い契約では、大祭司が年に一度至聖所に入り、イスラエルの民の罪の贖いをした。その時、大祭司は犠牲の動物の血をもって入り、贖いの蓋の上に血を注ぎ掛けて罪の贖いをした。しかし聖書は、新しい契約のもとでは、イエスキリストは完全な大祭司として、それも御自身を完全な幕屋として、ご自身の体をもって、また御自身の傷の無い神の子羊としての血を至聖所の贖いの蓋に注がれた。それによって私たちの罪の贖いをして下さった。それも永遠の、完全な贖いをして下さったと言う。
※だからイエス様の流された血は、私たちにとって永遠の贖いを保証する、私たちのイエス様に対する信仰の揺るがない土台なのである。契約というものはそういうものである。一度結んだら、それを破棄するまで、その契約はいつまでも有効なのである。そのように、イエス様の私たちを贖うために流された贖いの血は、私たちにとって永遠に変わることのない、取り消すことの出来ない契約の血である。
赤穂浪士の討ち入りの時の血判状は有名であるが、あの血判状にあれほどの効力があるとするなら、イエス様の血による血判状、契約にはどれほどの力があることか!
へブル9:13~14:「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
(2)次に、この新しい契約、イエス様の血は、私たちに「大胆な信仰、力強い確証を与える契約」である。
アブラハムは、彼の信仰が義と認められる時、神の言葉を信じて義と認められた。神はアブラハム(アブラム)に、「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」そして、「あなたの子孫はこのようになる。」という神の言葉を信じて、アブラハムは義と認められた。それで彼は神の民になったと言う。その確証として彼は割礼を受けた。(創世記15:5~6、17:10~27)
※だから、割礼は私たちと神との、神を信じる信仰に基づく契約のしるしである。「私たちは大いなる神の民であり、神は私たちの大いなる神である」という、契約のしるしなのである。
ゴリヤテを前にしたダビデの大胆な信仰の告白、力強い確証に満ちた言葉を見てみよう。
Ⅰサムエル17:26:「ダビデは、そばに立っている人たちに、こう言った。『このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。』」
ダビデは、このようにゴリヤテに弄(なぶ)られている人々に言い、そして、
Ⅰサムエル17:45~46:「ダビデはペリシテ人に言った。『おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の【主】の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、【主】はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。』」
と言ってゴリヤテを倒した。ダビデは割礼を受けている者として、確証に満ちてこう言ったのである。
※私たちはどうだろうか?―このような確証をもって神を証ししているだろうか?―聖書はこう言う。
Ⅰヨハネ5:5~10:「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血とによって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。」
※私たちは、イエスを神の御子と信じる信仰によって大胆に証しをするのである。それは、私たちの内に御霊がおられるからです。ユダヤ人たちは外見的な割礼を受けたが、この御霊が私たちの心に割礼を施し、それによって私たちは、あのダビデがゴリヤテに勝ったように、この世に勝つのである。どんな困難があっても患難があっても、大胆に神を、そして私たちの信仰を証しするのである。決して、最近の「神」に対する風潮、平気で神でない者を神とするようなこと、例えば、「村神様」とか、「神がかっている」とか言うような風潮に乗ってはいけないのである。
(3)またこの契約は、イエス様の血は、「完全な贖い、完全な守り、完全な癒し、完全な解放を与える契約」である。
イエス様の血を象徴する過越しの血がイスラエルの民の上に注がれていた時、何が起こっていたか?
出エジ12:23~24:「【主】がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、【主】はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って、打つことがないようにされる。12:24 あなたがたはこのことを、あなたとあなたの子孫のためのおきてとして、永遠に守りなさい。」
※そう!―新しい契約であるイエス様の血が注ぎ掛けられた私たちは、完全な罪の贖いを受けただけでなく、あらゆる悪からも、死の力からも、病の力からも解放され、それらは私たちに近付くことも、触れることも出来ない者となったのである。
詩篇91:10~11:「わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。」
ハレルヤ!アーメン!
【結論/聖餐式】
今から私たちは今日の御言葉に従って、新しい契約に基づいた聖餐に預かる。これは単なる儀式ではない。ここには、確かに私たちの信じる信仰の確証としての、イエス・キリストの割かれたみからだと血潮がある。特に今日は、メッセージで語られたイエス様の流された血の意味を、効力を考えよう。私たちはイエス様の流された血により、完全な罪の赦し、贖い、呪いからの解放、病いからの解放と癒しを受けているのである。それは変わることのない、取り消すことの出来ない契約である。だから、大胆にそれを受け取って、それを告白しよう。宣言しよう。証しの霊である内なる御霊の助けによって、証ししよう。
―祈り―
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