【聖書個所】
コロサイ4:5~6
【タイトル】
コロサイ書(18)「塩味の効いた生き方」
【前置】
先月は、「祈り」というものは、私たちクリスチャンにとって生きて行くための霊的呼吸のようなものであって、なくてはならないものであるということ、だからそのためにパウロは教会に対して、またクリスチャンに対して祈りをするようにと言う勧め、命令と、要請、お願いをしたことについて学んだ。特に要請、お願いについては、「みことばの奥義」、つまり神様のみこころ、御計画が、自分の奉仕を通してはっきりと表されるように祈ってくださいとお願いをしていた。
そのように、「みことばの奥義」である神様のみこころが、みことばを通してはっきりと示されることはメッセンジャーの務めであり、また願いでもある。だから今日も、私の奉仕のために祈ってください。みことばの奉仕を通して、神様のみこころ、御計画、また真理が明らかに表されるように!
それでは今日のみことばを開く。
コロサイ4:5~6:「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」
【序論】
先ず今日の箇所を見ると、動詞を中心にして、二つことが主題的に語られている。一つは、Ⅴ5の「ふるまいなさい。用いなさい」という「行動、ふるまい、行い」について。二つ目は、Ⅴ6の「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。」とあるように、「言葉遣い、言葉」についてです。つまり、私たちの「行い、行動」と「言葉」、一言で言うならば、「言動」についてのメッセージをコロサイの教会の人々に語っている。そして、それが今日の私たちへのメッセージでもある。
パウロは、私たちにどのような言動をもって生きて行くようにと語っているだろうか?
【本論】
先ず、「行動、行い」についてだが、パウロはこのように言っている。
V5:「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。」
これを抄訳聖書でも見てみよう。
抄訳聖書・V5:「外の世界の人々<非キリスト者>との関係においては、時を最もよく用い<機会を捕えて、《買い占めて》>賢くふるまいなさい<思慮深く、判断力をもって、生活しなさい>。」
パウロは前の箇所で、自分が人々に対して、みことばの奥義を大胆に、それもはっきりと分かるように、間違うことなく語れるように祈って下さいとコロサイの教会に要請したが、今度はここで、コロサイの教会に対して、自分のようにではないが、彼らが神の言葉を、人々(外部の人々=外の世界の人々、つまり、ノンクリスチャンの人々)に対して、間違うことなく、それも効果的に語ることが出来るように、「機会を十分に生かして」、抄訳聖書では、「機会を買い占めて」=機会を買い占めてしまえば、どんな時でも自由に、思うまま使うことが出来るから、そのようにして「賢明にふるまいなさい」、「賢くふるまいなさい。思慮深く生活しなさい」と言う。
※その目的は、神の言葉が明確に語られて、神の奥義、神のみこころ、御計画が明らかに示されるためです。
そして、ただ「行動、行い」だけでなく、「何を話すか、何をどのように話すか」という「言葉遣い」においてもそのようにしなさいと言う。それが、Ⅴ6の二つ目の「言説、言葉遣い」についてのメッセージです。
V6:「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」
これも抄訳聖書で見てみよう。
抄訳聖書・V6:「あなたがたの言説をいつも恵みあるもの<快い、人の心を引くもの>〔いわば〕塩で味付けたものにしなさい。〔そうすれば、あなたがたに質問をする人には〕誰にでも、どう答えなければならないかを知るのに、困ることが決してありません。」
※こうなればすごい。こうなればもう鬼に金棒、何があっても恐れることはない。こうなれば、Ⅱテモテ4:2の;
Ⅱテモテ4:2:「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」
という勧め、命令を、間違いなく実行することが出来る。
◎ではもう少し、このみことばが成就するために、私たちは「どうあらねばならないか=being」ということを見て行こう。
※そういう意味で、今日のみことばの鍵になるみことばは「塩味」です。この塩味が、行いにおいて味が付けば、Ⅴ5の「賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いる」生活をすることが出来、言葉において味が付けば、Ⅴ6:「外部の人に対して、いつも親切で、快い、人の心を引き付けるものになる」、そのような言動の生活になる。
※塩とは、神の言葉、神の知恵、神の愛、神の聖さ、神の御性質、神の能力、神そのものです。
では、どうすれば、その神の言葉、神の知恵、神の愛、神の聖さ、神の御性質、神の能力、神そのものの味を、私たちの「行動、行い」に、また「言葉、言葉遣い」に付けることが出来るだろうか?
引用例:コップの水にティシュを浸すデモンストレーション。
※そう!全身が塩味に浸されれば、言葉も行動も神の言葉、知恵、愛、聖さ、性質、能力、神ご自身を現わすことが出来る。
このことがさらに良く分かるように、このコロサイの箇所と似た箇所、内容的に関連のあるエペソ書からも見ておきたい。パウロが私たちの言動について、神の御性質に最も叶うものとなるために語っている箇所がある。
エペソ5:15~18:「そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」
※先ず、「御霊に満たされること」、先ずこれが「賢くない人のようではなく、賢い人のように歩むため、また、よくよく注意をして、機会を十分に生かして用いるため」に必要なことです。このティシュが、この水に浸されて、水一杯になるように、私たちが御霊に浸される、満たされることです。
次に、
エペソ5:19~21:「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」
互いにみことばを持って語り合い、「主に向かって心から歌い、賛美する」つまり、主を礼拝すること。そして、感謝すること。そして、互いに従うこと。語り合うだけではなく、従うこと。それらはすべて、主を恐れ尊ぶことが土台となっている。
引用1:罪を犯し、刑務所に行くことになったあるアメリカのテレビ伝道者、大衆伝道者の言葉。「私は神を愛していたけれども、私には神への恐れが欠如していた。」
引用2:教会形成、信仰形成を建物建設に例えて表現した土台と柱は神への恐れ、壁や屋根は神への愛との関係
どちらも、しかし神への恐れと愛とは別物というより表裏一体、もっと言うならば本質は同じ。
【結論】
※結局、御霊に満たされて、神を恐れ尊ぶことである。神を第一にすること、神をすべてのすべてとすることである。そうすることで、私たちの生き方が塩味の効いた言動のある生き方となる。
―祈り―
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