【聖書個所】
マルコ12:41~44
【タイトル】
「誰よりも多くささげられた献金」
【前置】
今日は牧師にとって、本当は一番したいと思うメッセージ、そして、皆さんも本当は一番聞きたいと思うメッセージです。何のメッセージでしょう。そう、献金についてのメッセージです。でも、よく「一番難しいメッセージだ」とも言われている。どうして難しいのか?それは、今日のメッセージの中で語られている。なので、先ずは早速、聖書を開いて行こう。
【聖書個所】
マルコ12:41~44:「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」
―祈り―
【序論】
ある時イエス様はエルサレムの神殿の中で、献金箱に向かってすわり、人々が献金箱にお金を投げ入れる様子を見ておられた。実はイエス様はエルサレムに行かれた時、公生涯の中ではヨハネの福音書によれば6回行ったことになっているが、イエス様がエルサレムで神殿に行き、そこで人々にメッセージを語る時、意外と多くの場合、この献金箱の前でしていたのではないかと思う。ヨハネ8章を読むとそのことが想像される。仮庵の祭りでエルサレムに上って来ていた時、献金箱の前の広場に姦淫の現場で捕らえられた女が連れて来られた。彼らはイエス様が姦淫の罪を犯した女にどんなことを言うかによってイエス様を罪に定めようと企てたのでいたわけだから、イエス様がいつもいるだろう所を知っていたに違いない。それでそこに連れて来たのではないかと、想像される。いずれにしろ、マルコ12章のこの記事が記されている時は、イエス様が十字架に架けられる過越の祭りの時だったので、イエス様にとって最後のエルサレム訪問の時だった。そこでイエス様は多くの人々が献金箱に献金を投げ入れている様子を見ておられた。その中には、多くの金持ちたちが大金を投げ入れている様子と、あるひとりの貧しいやもめが、レプタ銅貨2枚、それは1コドラントという金額(1コドラントは64分の1デナリなので、1デナリは当時の労働者の1日分の賃金だから、今日に換算するならば、10,000÷64≒156円)の献金を投げ入れている様子を見られて、こう言われた。
マルコ12:43~44:「すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。』」
今日はこの箇所から、「誰よりも多く投げ入れられた献金」と題して、献金とは何なのか?という献金の本質についてメッセージを取り次ぎます。
【本論】
結論を言う、献金とは、献金の額の多い少ないとか、捧げる回数がどうのとか、どういう種類の献金をどれだけ捧げているかということでなく、神様との関係、つまり、信仰そのものだということです。
もう一度、イエス様がこの時語られた言葉に注目してみよう。
V43~V44:「すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。』」
「まことに、あなたがたに告げます。」とは、「真実に語る。本当のことを言います。」ということ。同じ記事が記されているルカ21:3では、次のようになっている。
V3b:「それでイエスは言われた。『わたしは真実をあなたがたに告げます。」
イエス様は、人々が献金をささげている様子をご覧になられて、その献金について「本当のことを言います。真実のことを言います。」と言われた。つまり、多くの金持ちたちのささげていた献金と、このひとりのやもめがささげた献金の「実体、本質、その献金が何であるのか」ということについて語られたのである。
イエス様が言う、その実体、本質、真実とは何だろうか?―それは、「この貧しいやもめのささげた献金は、他のどんな人がささげた献金よりも、多くの献金であったが、他の人、金持ちがささげた大金も含めて、ほかのどんな人がささげた献金はそうではなかった」ということです。そして、その理由について、「金持ちも含めて、多くの人は有り余る中からささげた献金だったが、このやもめ女のささげた献金は、彼女の持っていたお金全部、生活費の全部を投げ入れたからだ」と言われたのである。
※つまりここに、献金、「お金を神様にささげる」とは何か、「お金をささげること」の実質、本質、その真理が明らかにされている。それは、献金は初めに結論として言ったように、捧げられる金額や回数、どんな献金をどれだけ捧げているかというような目で確かめ、数えられるようなものではなく、目では見ることが出来ない、数えることが出来ない私たちの信仰そのもの、私たちと神様との関係そのものだということです。
イエス様は、マタイ6:31~33でこう言われた。
マタイ6:31~33:「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
私たちがよく知っている箇所だが、ここで語られていることは、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るかということについて心配するのは止めなさい。何故なら、それらの、私たちが生きて行くために必要なものは神がすべて知っておられるので、神を信じなさいということ。短く言い換えるなら、生きるために必要なもののことは心配しないで、神を信じなさい。」ということが語られている。
「生きるために必要なもの」とは?―そう、お金です。今の社会は自給自足とか物々交換とかでは生きて行けない経済社会であり、貨幣経済によって成り立っている世界です。イエス様の時もそうだった。そのように、お金と私たちの生活とはもう密接につながっている。生活というよりも、私たちのいのちとお金とは密接につながっていて、もう切り離すことは出来ない。そんな中でイエス様は私たちに対して、「お金のことは心配するな。神を信じなさい。」と言われたのである。
献金とは、まさにそのこと。献金をするということは、まさにそのことの表われです。そのことの表れとして、私たちは神様に献金をするのである。義務でも、決りでもない。そうしなければならないからそうするというのではない。これは神様への信仰の表われです。特に什一献金というのは、その代表的なものですが、その原型とも言ってよい聖書個所を見てみよう。
創世記28:20~22:「それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、無事に父の家に帰らせてくださり、こうして【主】が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」
什一献金、十分の一のささげものについては、モーセの律法のレビ記とか民数記、また申命記の中で語られて、そして、それが什一献金の教えとして記されている。例えば、申命記14:22。
申命記12:22:「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。」
しかし、ヤコブが自分の家を出て、叔父であるラバンの家に向かう途中、ベテルにおいて神の臨在とその守りを確信した時、彼が「すべてあなたが私に賜る物の十分の一を必ずささげます。」と言ったのは、モーセの律法での教えがあったからではなく、彼と神との関係の中で決意されたものであり、ここに献金の原型、什一献金の原型、そして信仰の原型がある。
※これはヤコブと、この時この場所に現れた神がヤコブに語られたことに対する、彼の神への信仰の応答、信仰の言葉なのである。
神はヤコブに、
創世記28:13c~15:「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、【主】である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」と語られた。
※その神の言葉に対する彼の信仰の応答による言葉です。そして、それが什一献金の真理、実体、本質なのです。十分の一とは、全体を、完全を表すのです。
【結論】
私たちと神との関係はどうだろうか?―私たちと私たちの神との関係における神へのささげもの、献金、特に什一の献金についてはどうだろうか?―十分の一の献金を捧げるということは、それをもって私たちの信仰のすべてを表すものであるが、それによって「私の人生のすべてはあなたのものです。私のいのちはあなたによって与えられ、あなたによって守られ導かれているあなたのものです。」という思いで献金をささげているだろうか?
イエス様は、また私たちとイエス様との関係において、次にように言われた。
マタイ16:24~26:「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」
これもまた、表現は違っていても、「私のすべてはあなたのものです。」と、主に従う信仰を表すもの。それだからイエス様は、マタイ6章のところで次のように言われるのである。
マタイ6:19~21:「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」
今日、私たちはもう一度、自分と神、私と神との関係を見直し、そして、捧げている献金をもう一度見直してみよう。そして、私たちが献金をささげる神は、他には比べ得ることが出来ないお方であることをもう一度覚えよう。そして、心から神様に対して信仰をもって献金をささげよう。
―祈り―
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