【序論】
今日はこの箇所から、メッセージタイトル「祈りの勧めと要請」とあるように、「祈りなさい」という、祈りを勧めること、命じることと、「祈ってください」という祈りのお願い、要請についてのメッセージです。
【本論】
私たちはよく、「お祈りください」と、願い事があると言うし、私は牧師として、「祈りなさい」と勧めをすることもある。このように、「祈り」というのは「祈ってください」という要請、お願いのものと、「祈りなさい」という命令、勧めのものがある。そのように、私たちクリスチャンにとって「祈りは霊的呼吸」と言われるほど身近で、日常的なものです。
皆さんはそのように、祈りを毎日、毎時間、毎分、毎秒のようにやっていますか?―聖書は、コロサイ4:2:「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」と言う。
(1)ここに、祈りの勧めがある。
これをリビングバイブルで見るなら、LB:V2:「祈りをやめてはいけません。感謝をもって、熱心に祈り続けなさい。」となり、抄訳聖書では、抄訳聖書:V2:「あなたがたの祈り〔の生活〕に真剣でありなさい。〈倦むことのない《ゆるぐことのない》ものでありなさい〉。感謝をもって〔祈ることに〕油断しないで〈〔また〕心を集中させて〉いなさい。」となっていて、「祈り」というものがどういうものであるか良く分かると思う。
先ほど「祈りは霊的呼吸」と言ったが、呼吸と言うのは、肺が膨らんだりへこんだりして、肺の中の肺胞に空気が入り、そこでガス交換され、二酸化炭素は口から出て、酸素は血管で運ばれて体の中でガス交換される。この肺呼吸は、実は肺が自ら動いて呼吸をしているわけではなく、肺には筋肉が無いから、自ら動くことは出来ない。ちょうど紙風船やゴム風船のように、周りから肺を動かさないと空気は肺を出入りしないのである。その動かす役目が随意筋と言われる横隔膜であったり、胸筋であったり、腹筋であったりするわけです。
霊的呼吸である祈りもそうである。霊の肺を動かすために、霊の横隔膜や腹筋を動かして、祈りをするのである。霊の横隔膜や腹筋というのは、霊的随意筋、つまり私たちの意思であり、思いであり、心です。その心を、思いを、意思を働かせて、倦むことなく(いやになることなく、飽きることなく、疲れることなく、退屈することなく)、感謝をもって祈るのである。このⅤ2に似たお馴染みの聖句が次にある。
Ⅰテサロニケ5:16~18:「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」
この聖句では、「何について感謝しなさい」と言っているか?―「すべての事について」です。「良いことがあったから感謝する。嬉しいことがあったから感謝する。感謝すべきこと、感謝できることがあったから感謝する」というのではないのである。たとえ感謝出来ないことが起きても、悲しい、辛い、苦しい、痛みを覚えることが起きても、どんなことが起きても、「すべてのことについて、感謝しなさい」と言うのです。
※何故か?―それは、聖書は「それは神のみこころだ」と言うからである。New King James Versionでは、Ⅴ18:「in everything give thanks; for this is the will of God in Christ Jesus for you.」となっているし、抄訳聖書でも、はっきりと「神のみこころだから」と言っている。
抄訳聖書:V18:「万事について〔神に〕感謝しなさい。〈環境がどのようであっても、感謝深くあり、感謝をささげなさい〉。というのは、それはキリスト・イエスにあるあなたがたに対する神のみこころであり…。」
※祈りはこのように、神のみこころを行ない、また神のみこころを祈ることでもある。私たちは生まれたばかりのクリスチャンとしては、自分たちの願い事を神に祈ることが殆どだが、成長するにつれ、次第に神のみこころを知って、それを祈るようになるのである。それが神のみこころです。そして、それが次の「祈りの要請」に繋がっていく。
(2)祈りの要請、お願いが次にある。
「どうして祈りを要請し、祈ってください」とお願いするのか?―それは、それも神の御心であり、特に福音宣教という働きがなされるためには、祈りが非常に重要であり、そのための力が祈りにはあるからである。祈りは神の働きのための大きな霊的武具である。
コロサイ4:3~4:「同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。4:4 また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」
この箇所は、エペソ6:19~20に匹敵する箇所でもある。パウロはローマでの第1回目の幽閉の時(使徒28:16~31)、2年間軟禁状態であった。その時、彼はローマから獄中書簡と呼ばれる書簡を、エペソ、ピリピ、コロサイの教会に送っている。BC61年頃のことである。その中で、特にエペソとコロサイの教会に対する手紙は、その内容と構成において、よく似ている。コロサイの手紙と同様に、エペソの手紙でも、Ⅴ18で「祈りなさい」と命令、勧めをし、Ⅴ19~V20で「祈ってください」と要請、お願いをしているのである。
エペソ6:19~20:「また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」
このように祈りの要請をするのは、祈りが霊的武具として力のあるものであることをパウロは経験したからです。
使徒16:25~33:「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。そこでパウロは大声で、『自害してはいけない。私たちはみなここにいる。』と叫んだ。看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。そして、ふたりを外に連れ出して『先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。』と言った。ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と言った。そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。」
このようにして看守の家族が救われ、ピリピで宣教のわざを進んで行った。その原動力はどこにあったか?どこからその宣教のわざは進んで行ったか?―祈りからです。ペンテコステの出来事も、エルサレムでの初代教会の成長も、美しの門の男の癒しの出来事や、7人の執事の選出の出来事、ステパノの迫害、パウロの回心、ペテロの異邦人伝道等、事あるごとに祈ることによって進んで行ったのである。
【結論】
皆さんは祈りに一日何分、何十分、何時間費やすか?―神のみこころに達し、その神のみこころを祈るには時間がかかる。ちょうどロケットが大気圏を脱出して、地球の重力圏の外に出るようなもの。初めのうちは重い。何故なら、この世の力、肉の力が引力となって、祈りのロケットが重力圏を脱して、祈りが叶うことがないようにと、妨げるからである。しかし、賛美とみことばを告白して、それを燃料として祈るとき、地球の重力という肉の力から解放されて、神のみこころに達することが出来る。みこころが実現するのである。
だから、抄訳聖書のみことばのように、祈りのための霊的筋肉を動かし、倦むことなく、飽きることなく、疲れることなく、退屈することなく、真剣に、熱心に祈ろう。その内に、大気圏外に出て、祈りのブレークスルー、霊的破れを体験することが出来るようになる。
神のみこころである神の御国を求め、神の宣教のみわざが進んで行くように祈ろう!皆さんの祈りがそのような祈りであるように祈ります。
―祈り―
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