【聖書個所】
ダニエル2:31~36
【タイトル】
ダニエル書(4)「王の見た夢の解き明かし①」
【前置】
前回までのことを振り返る。ネブカデネザル王は、ある時ある夢を見た。しかし、王はその夢が何かを知りたくて、その夢の意味をバビロンの知者たちに求めたが、誰も答えることが出来なかった。それで、王は知者たちを皆殺しにするように侍従長に命じた。しかし、それを聞いたダニエルは自分が王にその夢のことを話し、その解き明かしをするので、知者たちを殺さないようにと訴え、そのための時間をもらって他の3人の仲間、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤのところに行って共に祈った。すると、神からの夢の解き明かしがされたので、ダニエルは王の所に来た。そこまでが前回の2:1~30のところで記されていることだった。
今日はいよいよダニエルによる王が見た夢の解き明かしのところに入るが、その箇所からのメッセージを今日と来週の2回に分けて取り次ぐ。今日はその第1回目。今日はV31~V36の箇所から、「何故ダニエルは誰も出来ないような不思議なことが出来たのか?どのようにしてその解き明かしをしたのか?」というダニエル自身に関する不思議についてメッセージを取り次ぐ。
【本論】
ダニエルは侍従長に連れられて王の前に行き、王が見た夢について証しした。
V31~V35:「王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。」
本当に不思議な夢だが、その解き明かしについては、先ほど言ったように、次週に行なう。今日はその後の、V36:「これがその夢でした。私たちはその解き明かしを王さまの前に申し上げましょう。」と、ダニエルが王に語った言葉からメッセージを取り次ぐ。
※ここに、ダニエルが普通は人には出来ないことを何故することが出来たのか?そのしるしと不思議の源泉、その力、その能力の源泉についての答えがある。―結論を言う。それは、ダニエルの神との交わり、ダニエルは「いつも神と共にいる」という神との関係性、つまり、ダニエルの持っていた「神信仰」にその鍵があった。
信仰と言うのは、いつも言うように、神との関係性です。そして、神との関係性というのは、「私はただ、神を信じます。」と言う、ただ「私」からの一方通行的なもの、また「神を」とあるように、自分とは遠く離れていて、ちょうど人が神社やお寺に行き、その社に向かって、或いはお寺の本堂に向かって、遠くに離れている仏像、そこに何があるかも分からない社に向かって手を合わせるかのような、遠くにいる神様を信仰の対象物としての見るのではなく、「私は神に信頼している」、「私は神によって生きている」、「私は神の中に生かされている」と言うように、神との関係においては、英語の「in」で表されるものです。また、それは、神との関係そのもののことであるということである。それを表現しているのが、ヨハネ15:5。ヨハネ15:5では、イエス様は神との関係、御自分との関係を木と枝の関係として表現していた。
ヨハネ15:5:「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
信仰と言うのは、このように、つながっていることである。それも外見的ではなく、有機的につながっていることである。そこにはいのちの流れがあり、関わりがあるということです。そういう意味で、4月30日のみことば(ヨハネ8:31)の「みことばに留まる」、「みことばが入っている、根を下ろしている。根づいている」ということと同じことである。
また信仰は、船と錨を結んでいる錨綱のようなもの。錨綱は海の中にあって見えないが、嵐が来た時、船がもし口を開くことが出来たとすれば、「私は錨にしっかりとつながっているからも大丈夫」と言えるものである。何故なら、船は錨に繋がっているので、嵐が来ても揺れ動かされないからである。
また、凧を上げている人と凧のようなものでもある。―ある時一人の少年が曇り日にで凧を上げていた。そこに人が通りかかって、「君、何をしているのか?」と訊いた。少年が「凧を上げているのです。」と答えると、その人は、「凧を上げている、と言うけれど、凧なんか何処にも見えないね。」、そう言うと少年はその人に「凧は見えなくても、私は今、凧が何処にいて、どうなっているか知っているよ。何故ならここに糸があって、この糸で凧と繋がっているのだから」と。
※そう!まさに信仰とはそういうこと。たとえ神は見えなくても、私たちは信仰によって神を知っているのである。そのように、神も、また信仰と言うのも目には見えないが、信仰というのは、神と、信仰という綱、また糸によって、或いはブドウの木と枝のように、離れることなく繋がっている関係のことを言うのである。あの凧を上げている少年のように、それはその信仰者本人には分かるのである。そして、確信を持って神と繋がっているという意味で、「私は神を信じている。」と言うことが出来るのです。
皆さんはどうか?皆さんは、人から皆さんの信仰を問われた時、何と言うか?どのように言うか?どのように証しをするか?どのように神様のことを伝えるか?
ダニエルは、この彼の神信仰を、王に解き明かしをする時に、次のように言うことによって、それを証した。ダニエルは王に何と言ったのだろう?
V36:「これがその夢でした。私たちはその解き明かしを王さまの前に申し上げましょう。」
彼はこのとき自分のことを、「私たち」と言っているのです。不思議である。何故なら、この時、王の前にいるのはダニエル一人だけ。まさか、傍にいるだろう侍従長のアルヨクを指して、「私たち」と言ったわけでもないだろう。どうしてダニエルは一人なのに、彼は「私たち」と言ったのだろう?―註解書によるなら、それは「謙遜を現わすための言葉」であるという。しかしそれは余りピンと来ない。また、神に祈る時、仲間のハナヌヤもミシャエルもアザルヤもいたので、自分が代表として「私たち」という表現を使ったのだという註解もあった。そうかもしれない。
しかし、今までの文脈の中で、ダニエルと神との関係性、ダニエルの神信仰から考えるなら、ここで「私たち」と言う言葉で表すときに一番相応しいのは、「私と神様はその解き明かしをしましょう。」という神様との「私たち」です。
それは何処から分かるか?―ダニエルが3人の所に行って、神に祈った祈りを見てみよう。
2:19~23:「そのとき、夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに啓示されたので、ダニエルは天の神をほめたたえた。ダニエルはこう言った。『神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。私の先祖の神。私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。あなたは私に知恵と力とを賜い、今、私たちがあなたに請いねがったことを私に知らせ、王のことを私たちに知らせてくださいました。』」
ここにあるように、神様が夜のうちにダニエルに現れて、王の見た秘密を解き明かし、啓示を与えたので、彼は王に対して「解き明かしをしましょう。」と言ったのである。それも、啓示を与えて下さった神様、解き明かしをして下さった神様が共におられるので、このように言ったのである。それが、彼の神信仰。彼は信仰によって、ここに夜の内に彼に現れて、啓示を与え、彼と共におられる神が今ここにもおられるという信仰を持っていたのである
※この、「神が共におられる」ということ、それを知り、それを告白することが出来ること、また確信できることは素晴らしい特権です。しかし、旧約の時代には、このような特権、神の臨在の特権は限られた人にしか与えられていなかった。アブラハムやヤコブ、モーセやヨシュア、サムエルやダビデやとソロモンなど。そしてエリヤやエリシャを始めとした多くの預言者たちである。
※しかし、今の時代は誰にでも聖霊様が共に住まわれ、ダニエルのように神の知恵と力が与えられて、夢や幻を解き明かすことが出来るような能力も与えられているのである。ペテロは、それをヨエルの言葉の成就として、彼自身が聖霊に満たされ、聖霊様と共にあって次のように語った。
使徒2:17~18:「『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。』」
また、それはイザヤの預言としても語られている。
イザヤ11:1~2:「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、【主】の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と【主】を恐れる霊である。」
これは直接的にはイエス様の関する預言だが、二義的には、そのイエス様を信じる弟子である私たちに関する預言でもある。
【結論】
だから、私たちは、「神は私たちと共におられる」と言うことを、しっかりと覚えよう。私たちは、この神の霊と共に歩むのである。神の霊と共に生きるのである。
どうすればそのような信仰、「神は私と共にいる。また私も神と共にいる」という信仰の確信を持つことが出来るのか?―それは、この後ダニエルの信仰生活の在り方について知ることが出来るように(ダニエル6:10、7章以降)、彼がいつも神と共にあって、神と交わり、神と共に祈り、多くの時間を神と共に過ごしたように、私たちも神と共に時間を過ごすならば、そのようにして神との親しい関係を持つならば、私たちは「神は私と共にいる。私も神と共にいる。」という信仰の確信を持って生きることが出来る。ぶどうの木と枝のように、船と錨のように、少年と凧のように。
※これがダニエルの神信仰であり、私たちの神信仰です。そして、この神信仰によってダニエルが王に証しをし、夢の解き明かしをしたように、私たちも私たちの信仰を、神からの啓示の言葉を、神の言葉を証ししよう!証しする者とされて行こう!
―祈り―
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