【前置・序論】
今日のメッセージのテーマは「復活信仰によって生きる」ということだが、「復活信仰」とは何か?―それは、私たちの福音信仰の中核であるイエス様の十字架を信じる信仰と復活を信じる信仰、そして、再臨を信じる信仰の中の、イエス・キリストの復活と、それに基づく私たちの復活を信じる信仰のこと。パウロはそれを;
Ⅰコリント15:1~8:「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。」
と言って、パウロは、自らがキリストの復活を目撃した、体験した証人として語っている。今日私が語ろうとする復活信仰は、そのように私たちが死んだ後に復活するという死後の復活のことではなく、イエス様の復活を信じた者として、今、私たちの内に生きて働いている復活信仰のこと。つまり、イエス様の復活を信じた者は、順番はあるけれども復活するという、死んだ後のことではなく、今、私たちは復活を信じる信仰によって、復活のいのちによって生きているという「今」のことである。
パウロはそれを、今日の聖書個所の中で語っている。今日はこの復活信仰のことについてメッセージを取り次ぐ。
Ⅱコリント4:8~11:「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」
【本論】
私たちの信仰生活には、今読んだように、途方にくれたり行き詰まりを感じたりすることがある。先月の合同礼拝の時に触れた少子高齢化の問題など、その一つだろう。しかしパウロはそのような中にあっても、「私たちは決して滅びることはない」と、大胆に、力強く語っている。宣言しているのである。
V8~V9:「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」
これを私たちの状況に当てはめて言うとするならば、「私たちは、少子高齢化のために四方八方から苦しめられているが、窮することはない。少子高齢化のために途方にくれているが、行き詰ることはない。霊的な意味では迫害されているようなことだが、見捨てられることはない。倒されているようだが、滅びない。」と、大胆に、確信をもって語ること。宣言することである。
宣言:「私たちは、少子高齢化のために四方八方から苦しめられていますが、窮することはありません。途方にくれているが、行き詰ることはありません。そのような意味で、試練に合っているが、見捨てられることはない。倒されているようですが、滅びることはありません。ハレルヤ!」
この信仰はどこから来るのか?―そう!イエス・キリストの復活を信じる信仰から来るのである。
V10~V11:「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」
パウロはイエス・キリストに救われ、そしてイエス・キリストの弟子として、パウロの場合はただ弟子としてだけでなく、使徒として与えられた使命である福音宣教と弟子造り、教会形成の使命を果たすために、まさに、Ⅴ10:「イエスの死をこの身に帯びている」、また、Ⅴ11:「イエスのために絶えず死に渡されている」ようなところを何度も通って来た。パウロはそのことを、Ⅱコリント11:23c~28で、次のように言っていた。
Ⅱコリント11:23c~28:「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。」
V28:「教会への心づかい」とは、教会に対して、何か気を遣うということではなく、それもあったかもしれないが、それだけではなく、教会内での牧会上のさまざまな悩みや問題のことです。パウロは、Ⅱコリント4:10~11で、そのような労苦、死に直面したことなどを、「イエスの死をこの身に帯びている」、また「イエスのために絶えず死に渡されている」と言っていた。しかしそれは、「イエスの死」=苦しみ、困難、試練、悩みのことを、ただ何とかして欲しいから訴えていたのではない。パウロはそこで何と言っていただろう?もう一度、Ⅴ10~V11を見てみよう。
V10~V11:「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」
※いろいろな労苦や悩み、問題や試練があるのは、それは、「イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるため。また、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。」と、イエスの復活を信じる信仰、復活信仰によって言っている。
※ここで、「イエスのいのち」と言っているのは、「イエス様の復活のいのち」のこと。
抄訳聖書:Ⅱコリント4:10~11:「そしていつも、主イエスが苦しまれたと同じような死を遂げなければならない<死にさらされている>状態をこの身に負い回っているのです(これは実際に「死ぬ」ということではなく、死と同じような苦しい目に合うということ)。それは、イエスの〔復活の〕いのちが私たちのからだによって<の中に>示されるためです。なぜなら私たち生きている者は絶え間なくイエスのために死に渡され〔ることを体得してい〕るのであって、それはイエスの〔復活の〕いのちもまた死ぬはずの私たちの肉〔体〕を通して証明されるためなのです。」
※そうです!今、イエス様の復活を信じる者にとって、復活信仰の意味はここにある。イエス様の復活を信じる復活信仰は、ただ「死んだら天国、死んだら復活する」という、死後のことだけではなく、今生きている、私たちの今のことでもある。この復活のいのちが私たちの内に働いているから、この復活を信じる信仰があるから、私たちはどんな試練や問題、労苦や悩みがあっても、それに打ち勝つことが出来るのである。
V12~V13:「こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。4:13 『私は信じた。それゆえに語った。』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。」
V12:「いのちはあなたがたのうちに働くのです。」とは、「その復活のいのちを持って、どんなことがあっても福音を宣教して行く、その働きをして行く。」ということ。その私たちの内にある復活のいのちによって、またその復活を信じる信仰によって、大胆に福音を宣言して行く。これが、私たちの信仰による働き、福音宣教の働きです。ハレルヤ!
なので、またパウロは、私たちの信仰の父であるアブラハムの復活信仰から始まって、私たちの持つ復活信仰について、ローマ4章~5章にかけて、次のように言っていた。その箇所も見てみよう。
ローマ4:16c~5:5:「『わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。』と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、『彼の義とみなされた。』と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
【結論】
今、私たちは大きなチャレンジに直面している。一昨年に吉川の教会を出て、自前の会堂のないところで教会形成をしている。人も少なく、容易ではない。しかし、死者をよみがえらせ、無いものを有るもののように呼び出すことの出来る神は、私たちと共におられる。だから、神は必ず私たちを建て上げて下さる。すべての必要も満たして下さる。私たちにとって足りないものは何一つない。死からよみがえられた主が共におられるからである。この方は私たちの内に働いておられる。だから、この希望は決して失望に終わることはない。四方八方から苦しめられるが、窮することはない。途方にくれることもあるが、行きづまることはない。迫害されることもあるかもしれないが、見捨てられることはない。倒されることもあるかもしれないが、滅びない。
※信仰を持って、大胆に宣言し、語って行こう。
―祈り―
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