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2023.4.30 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【聖書個所】

ヨハネ8:31~37


【タイトル】

「あなたのうちに入っていますか?」


【前置】

 今日のメッセージタイトルは何やら意味深なタイトルですが、「あなたのうちに入っていますか?」というのは、みことばのこと。だから、これは非常にチャレンジに満ちたメッセージタイトルであり、また、メッセージを聞くということに関して非常に重要なポイントです。では、早速みことばを開こう。

【序論】

 今日、皆さんは何をするためにここに来ましたか?―そう、礼拝をするためにですね。礼拝には賛美の時間とみことばを聞く時間がある。なので、これから私たちはメッセージを聞くわけだが、もし、自分で言うのも変だが、私が、私の言葉を聞くために今日ここに来たとするならば、ここに来た目的、礼拝する目的は半減する。またその目的の半分しか達成しない。皆さんもそうです。もし皆さんが、満足するかどうかは別にして、私の言葉だけを聞いて帰るとするならば、それは半分空しい礼拝をして帰ることになる。

 何を言っているのか?―それは、「メッセージを聞く」ということは、私の言葉、人の言葉ではなく、「神の言葉、生ける神の言葉を聞く」ということだからです。そしてそれは、ただ「耳で聞く」というだけでなく、その聞いた神の言葉を「私たちのうちに留まらせる、入らせる」、Ⅴ37の「…はいっていないからです。」の脚注によるならば、「根をおろさせる、根付かせる」ということだからです。

 先々週の木曜、杉戸の伊藤兄姉からミニトマトやスナップエンドウの苗をもらった。そして、先週、私の家ではそれを庭に植えた。植えれば、根を張り、成長して、実を結ぶ。しかし、もらったままで植えなければ、やがて枯れて死んでしまい、実を結ぶこともない。

 「みことばを聞く、メッセージを聞く」ということもそういうことである。みことばも、聞いただけではなく、それを私たちのうちに、心の畑の中にそれを植えなければ、みことばは入らない、根をおろさない、成長して実を結ぶことはないのである。

【本論】

 イエス様はユダヤ人たちに、神のことばを語っていた。その内容は、8:31の前の箇所にある。そのところで何を語っていたのか、その内容のすべてをここで語ることは出来ないが、イエス様は彼らに、そこでは「自分は何であって、そして、自分は誰の言葉を語っているのか」について話をしていた。あとで、皆さんの方で確認してみてください。

 そうすると、多くのユダヤ人がイエス様を信じたという。

V30:「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。」

 しかし問題はこの後です。イエス様が、

V31~V32:「そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。『もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』」と言うと、その「信じた」というユダヤ人たちは、

Ⅴ33:「彼らはイエスに答えた。『私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。』」と言った。

 その答えを聞いて、またイエス様は彼らに次のように答えられた。

V34~V37:「イエスは彼らに答えられた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。』」

 一言で言うならば、「あなたがたはまるで何も分かっていない。」ということです。

V34:「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」:「罪」とは「ハマルティア、的外れ、見当違い」のことなので、そのようなことを言ったり、行なったりしている者は、みな「罪=ハマルティア、的外れ、見当違い」の奴隷だと言う。そして、

V35a:「奴隷はいつまでも家にいるのではありません。」:その「罪の奴隷は、いつまでも家にいるのではない」ということは、奴隷というのは、その家の主人との関係で、いつまでもその家にいるものではないということです。ユダヤでは、ヨベルの年(50年に一度)には、すべての奴隷は解放された。そういう意味で、奴隷と主人との関係はいつまでも続くものではない。

V35b:「しかし、息子はいつまでもいます。」:奴隷と主人との関係はそのようにいつまでも続くものではないが、息子と家の主人、つまり親との関係は、いつまでも続くもの、決して変わることのないものである。

※つまり、これは父なる神様と、子とされた私たちとの関係のことを言っているのであって、罪赦されて、神の子とされた私たちは、いつまでも父なる神様とともにいる。私たちは、そのような罪からの救い、罪からの解放と自由の中に、神の子として生かされているということです。

V36:「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」:

私たちは、「子」=神の御子であるイエス・キリストによって、救いが与えられ、本当に自由になったのです。

V37:「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。」と、彼らの実体、つまり、「信じた」とは言っても真に自由にされていない、まだ罪の奴隷の状態になっている彼らの霊的実体を明らかにしたのです。その彼らの霊的実体を明らかにした言葉が、「わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。」ということばです。

 今日、この「イエスを信じた。」(V30)と言われたユダヤ人たちに語ったイエス様の言葉、「わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。」という言葉は、皆さんにはどうだろうか?

※皆さんはイエス様を信じていると思う。私もそう。ただ、その信じている私たちに、イエス様のことばが入っているだろうか?皆さんのうちに、みことばは根をおろしているだろうか?根付いているだろうか?

 「みことばが入る、根をおろす、根付く」というのは、その信仰の結果、「イエス様の弟子になって、本当に真理を知って、「罪:的外れ、見当違い」の奴隷から本当に解放されて自由になるということは、ただ知的にみことばを知っているということではない。ただ頭で分かって、「あーそうか」と分かることではない。

引用例:頭の信仰と心からの信仰(わたしたちのうちにみことばが入っている信仰)との違いを、ナイアガラ滝を綱渡りした人の観客へのチャレンジの言葉:「手押し車に乗る人はいないか?」から語る。

※本当の信仰、つまり、罪の奴隷から解放され、イエス様の弟子になり、本当の自由を得ることの出来る信仰は、その人のうちにみことばがはいっている状態のことを言う。その信仰は、私たちをあらゆる奴隷の状態から解放し、自由にする。罪から、病いから、恐れから、不信仰から、疑いから、あらゆる支配から自由にするのです。

 そして、みことばに従って、例えば、

ヨハネ1:12:「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」から、いつも「私は神の子だ。」と言うことが出来、また、

イザヤ41:10:「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろくな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」という言葉から、「私は誰をも恐れない。私は何者をも恐れない。」ということが出来、

ピリピ4:13:「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」のように、大胆に確信をもって言うことが出来る。そして、そのように生きることが出来るのです。

※私たちは、ただみことばを聞くだけの者であってはならない。ただ「頭で信じる、口先だけで信じる」というだけの者であってはならない。私たちは、みことばを、わたしたちのうちに入れ、留まらせ、根付かせ、宿らせ、そして、心から信じる者でなければならない。そういう者は、その信仰によって、行いの伴う信仰によって祝福されるのです。

ヤコブ1:22~25:「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」

引用:私のトロントでのみことば体験から。チャールズ・カーリン師のメッセージの中のマリヤの言葉:「ほんとうに、わたしは主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)と言う言葉を聞いた時、それがレーマ(レーマというのは、その時、その人に、特別に語られる神の生けるみことば)として私の腹に入り、私はみことばを宿した。それ以来、この神の言葉は私のうちにずーっと働いていて、その後、会社で働くようになっても、内なる人がいつも主の臨在と共に居て、生活することが出来た。そして今も変わることなく、その臨在と共にある。

※「みことばに留まる、みことばが入っている、みことばが根をおろす」ということはそういうこと。ただそのことは、特別な体験によってのみ起こることではない。聖書のみことばを読むときに、これが私に語られている神の言葉だと受け取って、何度も何度も読み、思いめぐらすことです。分からなければ、神様に、「これはどういうことですか?」と聞くことです。註解書を読むことも良い。ネットで検索することも良い。しかし、それらは人の言葉による解説だから、よく吟味して、神様に尋ね求めながら、直接みことばに留まることです。そうすれば、神様は必ず答えて、啓示して下さる。

エレミヤ29:13~14a:「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。」

【結論】

 今日、みことばはあなたのうちに入っていますか?今日、みことばはあなたのうちに根づいていますか?―みことばを慕い求めよう!教えて下さるよう、祈り求めよう!

―祈り―

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