【前置】
前回は、ダニエル1~18で、この世の知者と信仰者の違いについて語った。その違いは、神に対する信仰があるかないかということだった。知恵があってもなくてもどっちでも良いということではなく、勿論知恵はあった方が良いが、それ以上に神に対する信仰があるかないかの方がはるかに重要であるということです。何故なら神は、知恵があっても神を求めない者より、たとえ知恵は無くても神を求める者、神を一番に信じる者を選ばれるからである。そして、神より自分を誇る者を退けられるからです。
前回のメッセージの中のみことばにあった通りである。
Ⅰコリント1:26~29:「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」
BC605年、バビロンの王がエルサレムを包囲し、神殿の器具を奪い取り、人々の中から身に何の欠陥もなく、容姿も美しい少年たちをバビロンの王に仕えさせるために連れて来た。その中に、ダニエルとハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤという、この時まだ十代半ばの少年たちがいた。ダニエル書1章によるならば、彼らは、王が自分の宮殿に仕える者として相応しく、知恵を持つことが出来るようにと、特別な御馳走、この世の基準から言ったら頭が良くなる栄養満点の食事を与えようとしたが、彼らはバビロンの王が与える食物をとらず、野菜と水だけの食事で、バビロンのあらゆる知者、呪法師、呪文師よりも知恵のあることが示された。ちょうど親が子供を一流の大学に行かせるために一流の進学塾に通わせようとするのだが、そんな所に行かなくても、子供が二流三流の学習塾でも、場合によっては学習塾などに行かなくても一流の大学に受かるようなもの。
ダニエル達は、この世の特別な食事を採らなくても、神が与える神の言葉を食べていたので、この世的には何の経験もなく、無いに等しい者たちであっても、彼らは神に選ばれていたので、この世のどんな知恵ある者よりも、神の知恵においてはるかに勝っていたのである。
私たちもそうである。先ほどのみことばの前半をもう一度見てみよう。
Ⅰコリント1:26~27:「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」
私たちはダニエルたちと同じような者である。彼らは神に選ばれてバビロンに行き、エレミヤが捕囚にあっている人々に対して語った預言、「その地に住み着き、家を建ててその地で増え広がり、また、その地の繁栄のために働き、また祈れ」(エレミヤ29:5~7)という御言葉を忠実に実行し、バビロンで生活し、宮廷に仕える者になった。
私たちもそのように言われている。
Ⅰテモテ2:1~3:「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」
だから、そのようにこれからも歩んで行こう。そのために、ダニエルがバビロンでどのような信仰生活を送っていたか、また宮廷で仕えていたかを学び、私たちのこの世での信仰生活を学びとしたい。今日の個所はダニエル2:19~30である。
【序論】
ネブカデネザル王はある時夢を見た。しかし、その夢とその解き明かしをする者がカルデヤの知者の中にはいなかった。それで、王はそれらの知者を皆始末してしまおうと思ったが、王に仕える侍従長がダニエルたちのことを王に話すと、王はダニエルに時間を与え、その夢と解き明かしをすることになった。それでダニエルは自分の家に帰り、他の三人にこのことを話して、神に祈ったのである。それが前回までのこと。今日はその続きの箇所で、ここには、先ず、彼が神に祈った祈りが記され(V20~V23)、そしてその後、彼が王のところに行き、王に語った言葉が記されている。(V24~V30)
ダニエルは神に何を祈り、何を王に語ったのだろうか?―ここに、ダニエルの信仰の現われがある。
【本論】
(1)ダニエルの祈り
V20~V23:「ダニエルはこう言った。『神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。私の先祖の神。私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。あなたは私に知恵と力とを賜い、今、私たちがあなたに請いねがったことを私に知らせ、王のことを私たちに知らせてくださいました。』」
先ずダニエルは、神の御名を始めにあがめ、ほめたたえている。
V20:「神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。」
イエス様も、弟子たちが「祈りを教えてください。」と言った時、「主の祈り」という私たちが呼ぶ祈りを教えられた。少し脱線になるが、この「主の祈り」とは、「主が祈られる祈り」という意味の「主の祈り」ではなく、主が弟子たちに、「こう祈りなさい。」と教えられた「主の祈り」ということ。何故なら、主はおひとりなので、「私たち」と言うことはないし、主は罪のない方だから、「私たちの負い目をお赦しください。」と言う必要はないから。いずれにしても、その「主の祈り」の中で、その始めに「御名があがめられますように。」と、御名があがめ、ほめたたえられている。ダニエルも同じように祈った。そしてそれはまた、次の「知恵と力は神のもの」とあるように、神の全知全能なる神の性質、能力をほめたたえる賛美でもある。何故なら、Ⅴ19で、「そのとき、夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに啓示されたので、ダニエルは天の神をほめたたえた。」とあるように、ダニエルは自分たちの祈りに答えて、神がネブカデネザル王の見た夢の秘密を啓示してくれたので、その神に対する賛美でもあった。
そして次に、神は「どういうお方であるか」について語っている。その内容は、神は時を支配し、歴史を造り、歴史を導かれる神であるということ。そして、すべて隠されていることを明らかにされる神であるということ。
V21~V22:「神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けられる。神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す。」とある通り。
そして最後に、その神を、一般的な神としての神ではなく、個人的な「自分の神」として、感謝と賛美をささげていることである。
V23:「私の先祖の神。私はあなたに感謝し、あなたを賛美します。あなたは私に知恵と力とを賜い、今、私たちがあなたに請いねがったことを私に知らせ、王のことを私たちに知らせてくださいました。」
※ここにダニエルの信仰の先ず一つ目のポイントがある。それは、何が起ころうとも、何も起こらなくても、彼は歴史の中に働く神の主権を認め、そして、その歴史の主権者である神を、「私の神」と呼ぶように、神と個人的な関係を持っていたということ。
※私たちはどうか?―私たちは、私たちの人生、歴史の中にいろいろなことが起こるが、そこに神の主権を認め、その神を「私の神」と呼ぶような個人的関係、親しい神への信仰を持っているだろうか?―そのような信仰を持ちたいものである。
(2)何を王に語ったか?
先ず彼は、王の為すべきこと、また為してはならないことを語った。
V24:「それからダニエルは、王がバビロンの知者たちを滅ぼすように命じておいたアルヨクのもとに行き、彼にこう言った。「バビロンの知者たちを滅ぼしてはなりません。私を王の前に連れて行ってください。私が王に解き明かしを示します。」
ネブカデネザル王は、カルデヤ人の呪法師たちが、自分の見た夢とその解き明かしをすることが出来ないことに怒り、彼らを皆殺そうとした。ダニエルは、そんなことは王はしてはならない、または王にさせないようにと、王の侍従長に自分を王の下に連れて行くようにと言い、そして、「バビロンの知者たちを滅ぼしてはなりません。私を王の前に連れて行ってください。私が王に解き明かしを示します。」と言った。彼はみことばから、王の為すべきこと、また為すべきでないことを王に語ろうとした。それは、彼がみことばからそのことを教えられていたからである。
箴言31:4~5:「レムエルよ。酒を飲むことは王のすることではない。王のすることではない。『強い酒はどこだ。』とは、君子の言うことではない。31:5 酒を飲んで勅令を忘れ、すべて悩む者のさばきを曲げるといけないから。」
「人の上に立つ王たるものは、感情任せに正しい裁きを曲げてはならない。」ということを語ろうとしたのであろう。
そして次に、彼は王の前に連れていってもらい、王が見た夢に対して、神から受けた啓示、つまり、神の言葉、みこころ、御計画を彼に語った。
V27~V30:「ダニエルは王に答えて言った。『王が求められる秘密は、知者、呪文師、呪法師、星占いも王に示すことはできません。しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。王さま。あなたは寝床で、この後、何が起こるのかと思い巡らされましたが、秘密をあらわされる方が、後に起こることをあなたにお示しになったのです。この秘密が私にあらわされたのは、ほかのどの人よりも私に知恵があるからではなく、その解き明かしが王に知らされることによって、あなたの心の思いをあなたがお知りになるためです。』」
神の御計画、神のみこころを知らせ、それによって、「あなたの心の思いをあなたがお知りになるためです。」=自分は何をすべきなのか、何をどのようにして行えば良いのかという「神のネブカデネザルに対するみこころ、御計画」を知らせるためだった。
※これらは皆、ダニエルの神信仰に基づく言動です。そしてこれが、私たちのこの世に置かれている目的、また使命でもあるのです。初めに触れたように、私たちがこの世の高い地位にある人たちのために祈ること。そして、神の啓示の書物であるこの聖書から、この世の人々に神のみこころ、御計画を知らせること。つまり、伝道、証しをすること。これが、ダニエルがバビロンに置かれて行なったように、この世に置かれている私たちの持つべき神信仰と、その信仰に基づく言動である。
【結論】
もう一度、この世における私たちに対する神のみこころを確認しよう。
Ⅰテモテ2:1~3:「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」
そして、続けて、
Ⅰテモテ2:4~7:「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ──私は真実を言っており、うそは言いません──信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。」
※私たちは皆、パウロのように文字通り使徒ではないかもしれない。また教師ではないかもしれない。しかし、私たちは皆、時至ってなされたキリストのあかしをする宣伝者である。
これが、私たちの信仰と、その信仰に基づくものである。そのような者であろう!
―祈り―
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