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2023.3.5 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【前置】

 前回はⅤ5~V11で、「クリスチャンの衣」として、「脱ぎ捨てるべき衣」、すなわち、着てはならない衣についてメッセージを語った。それは、偶像礼拝の衣であり、古い生き方、考え方の衣であり、人に対して益にならない言葉を語る衣でした。


 今日は、「脱ぎ捨てるべき心」、「着てはならない衣」ではなく、むしろ反対の「脱ぎ捨ててはならない衣」、「着なければならない、着ていなければならない衣」についてみことばからメッセージを取り次ぐ。


【本論】

 「脱ぎ捨ててはならない衣、着ていなければならない衣」とは何か?―それは;


(1)愛の衣

 パウロは、私たちがキリストによって、キリストの姿にますます似せられて新しくされているので、つまり救いを受け、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」(Ⅴ12)とされているので、そのような者として、「あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」(Ⅴ12)、つまり、「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」という衣を脱ぎ捨ててはならない。着ていなければならないと言う。


 この「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」の衣は、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊の実、特に人と人との間で結ばれる「寛容、親切、善意」という実、また自分自身との関係の中で結ばれる「誠実、柔和、自制」の実に似ている。だから、大きく括る意味で言うならば、「御霊の実の衣を着ていなさい。それを脱ぎ捨ててはいけない。」ということである。


 また、「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(Ⅴ13)と、「互いに忍び合い、互いに赦し合う」という衣を脱ぎ捨ててはならない。着ていなければならないと言う。


 しかし、現実には御霊の結ぶ実の衣を着ることも、また、「互いに忍び合い、互いに赦し合う」衣を着るのもなかなか難しい。つい気に食わないことがあると、一言文句を言いたくなってしまう。反対に、何も文句を言わないとするならば、或いは言えない状況であるならば、ただ我慢して、怒りを、不満をじーっと自分の中に溜め込み、「互いに忍び合う衣、互いに赦し合う衣」を着続けることが出来ず、脱ぎ捨ててしまう。そして、「赦さない衣」をずっと着続けてしまうのです。だから、互いに赦し合うことは本当に難しい。しかしここに、その衣を着続けることが出来る秘訣が語られていた。それが、「主があなたがたを赦してくださったように」(Ⅴ13b)ということです。


 以前、御霊の実の学びをした時に語ったように、私たちが御霊の実を結ぶことが出来るのは、私たちが頑張って、肉の力で御霊の実を結ぶのではなく、先ず神様が私たちを愛し、私たちの救いのために十字架に架かって死んで下さり、そしてよみがえって、御霊によって御霊の実を結ぶことが出来るようにして下さったからだった。


※ただし、御霊に導かれて、御霊に従って行くのならばです。


ガラテヤ5:18、22~23:「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。」、「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。


※私たち(私たちの古い人)は、律法によって律法に死にました。私たちが今生きているのは、そして御霊の実を結ぶことが出来るのは、キリストが私たちのうちに、御霊が私たちのうちに生きているからです。だから、御霊の実の衣、そして「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」の衣、また、「互いに忍び合う」衣、「互いに赦し合う」衣を脱ぎ捨てずに、身に着けていよう。そして、それを確実にするのが、アガペー、神の愛の帯です。


V14:「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。


 この帯は、一度結ばれたなら、神様以外、決してほどくことは出来ない完全な結びの帯なのです。ローマ8章からも見てみよう。


ローマ8:35~39:「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。


 だから、私たちはそのような者とされているから、「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」の衣、また、「互いに忍び合う」衣、「互いに赦し合う」衣を着続けていよう。


(2)平和の衣

V15a~b:「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。


 「平和」というのは、(ギ)エイレーネ、(へ)シャロームに当たる言葉。それは、ただ平安とか平穏無事とかいうこと以上に、もっとクリエイティブで、もっとエネルギッシュで、力強い言葉です。


 イエス様は御国の民の姿を示すために、山上の垂訓の中でいろいろな表現を用いて語られた。その中の一つに、マタイ5:9:「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」があるが、そのように、「平和」というのは受身的なものではなく、能動的、積極的なもの。


エペソ2:14~18:「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。2:17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。


※この「平和」そのものであるキリストによって、私たちは神との「平和=和解」が与えられ、水平方向における隣人、人々、国々、民族を超えて、その中にある敵意は葬り去られ、その間を間仕切っていた隔ての壁は打ちこわされたのです。ハレルヤ!


 だから、その平和が「あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(Ⅴ15)と言う。平和の衣を着なさい、脱ぎ捨ててはならないと言うのです。


※今あなたは、神との間に平和を持っているだろうか?また、誰かとの間に平和を持っているだろうか?―もし持っていなければ、神に求めよう!


フランチェスコの祈り:「主よ、わたしを平和の器とならせてください。憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、分裂があるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、闇あるところに光を、悲しみあるところに喜びを。 ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。 それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、許すことによって赦され、自分のからだをささげて死ぬことによって、とこしえの命を得ることができるからです。」


(3)感謝の衣

V15b~V17:「また、感謝の心を持つ人になりなさい。3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。3:17 あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。


 この箇所には、「感謝」という言葉が3回出て来るが、「感謝」はクリスチャンの専売特許です。私たちは「感謝」というブランド名を体中に貼って歩く商品、製品のようなものです。勿論、メーカーは神様。神様は私たちを造って、そして贖ってくださり、そして、私たちを感謝の心を持つ者にしてくださった。感謝の衣を着て生きる者にしてくださった。


※何故なのか?―それは、私たちの創造も、また贖いも、すべて一方的に神様が為してくださったこと、成し遂げてくださったこと、神からの賜物、恵みだからです。恵みというのはいつも言っているように、与えられる資格や権利のない者に与えられる無償の賜物、贈り物。だから、与えられた私たちには感謝しかない!


 だから、このV15b~V17のみことばは、出来ないのに、分からないのに、無理矢理に感謝をするように!というみことばではない。もし私たちが、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め」(Ⅴ16)るなら、それによって、私たちは、どんなに神様によって愛されており、どんなに神様は私たちのことを顧みてくださっているかが分かる。だから私たちは無理矢理にではなく、強いられてでもなく、神様に心から感謝をささげることが出来るのです。神様だけにではなく、私たちに与えられているすべての事物、人に対して、時に対して、すべてに対して、感謝をすることが出来るようになる。「すべてに、すべてを感謝します。」と。それでパウロは、テサロニケの人々に、そして私たちに、Ⅰテサロニケ5:18:「すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と言う。


※だから、感謝しよう!


―祈り―

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