【前置】
前回は1章から、「ダニエルの登場」と題して、このダニエル書が書かれた時代背景と、その時代背景の中での、ダニエルを筆頭にした、ユダヤからバビロンに連れて来られた4人の若者の、バビロンの国における様子を、ダニエル書の講解説教の始まり(序)として概説した。いよいよ今日からダニエル書のハイライトに向かって、ダニエル書のメッセージを取り次いで行く。
ハイライトというのは、このダニエル書を、ダニエルを用いて書かせ、今日までこのようにして残して私たちに読み聞かせ、そして悟らせようとする、神様の、このダニエル書の結論的メッセージです。それは最後の章、12章にあって、そこを読めば分かるが、「終末の時代に生きる人々、つまり今日の私たち、終末を迎えようとする人々に対するメッセージ」です。その詳細については、黙示録のメッセージのように語ることは出来るが、今はあとのお楽しみとして残して置こう。
ところで、今、「黙示録」という言葉を使ったが、「黙示録」というのは、ギリシャ語で「アポカリュフィス」と言って、「アポ」=「外れて、離れて」という意味の言葉と、「カリュプトー」=「覆う、被(かぶ)せる」という意味の動詞の派生語、「カリュフィス」=「覆われているもの、隠されているもの」という言葉が二つ繋がった言葉で、文字通り「覆いが外されたもの、隠されていたものが明らかになったもの」という意味になる。だから、「黙示録、啓示録」と言うのである。黙示録の講解説教は未だ先になるが、予め参考のために。
では、さっそく今日の箇所に入ろう。
【序論】
V1~V2a:「ネブカデネザルの治世の第二年に、ネブカデネザルは、幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった。2:2 そこで王は、呪法師、呪文師、呪術者、カルデヤ人を呼び寄せて、王のためにその夢を解き明かすように命じた。」
ネブカデネザル王の治世の第2年というのはBC603年のこと。この年は、ダニエルたちがバビロンに連れて来られた年、BC605年からの3年目に当たる。その年のある時、「ネブカデネザルは幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった。」と言う。どんな夢だったのか?―世の中には、よく夢を見る人とそうでない人がいる。どうでも良いような夢なら無視することが出来るだろうが、どうもこの時、ネブカデネザルはそうではなかったようだ。それで彼は、「…、呪法師、呪文師、呪術者、カルデヤ人を呼び寄せて、王のためにその夢を解き明かすように命じた。」という。―ネブカデネザルはバビロン帝国という、当時の世界の大国の王として即位していた。それも即位したばかりなので、人には見せなかったかもしれないが、心の中にはいろいろな恐れや不安というものがあっただろう。それで彼は、自分の身の周りに、呪法師や呪文師、呪術者、所謂まじないや占いをする人を置き、自分ではどう判断しかねる難しい問題などがある時は、彼らに尋ねていたのだろう。―世の中の高い地位にある人たち、例えば国のリーダーや起業家などの内には、今日でもそういう人たちが結構いる。例えば、私の働いていた会社の社長や、朴槿恵前韓国大統領やレーガン大統領などである。それで彼もそういう人たちを呼び寄せた。しかし彼らは、ネブカデネザル王が求めるようには答えられなかった。ネブカデネザルが求めたことは、「どんな夢を見たのか」という、彼が見た夢そのものについてと、その夢の解き明かしだったからである。
V3~V6:「王は彼らに言った。『私は夢を見たが、その夢を解きたくて私の心は騒いでいる。』2:4 カルデヤ人たちは王に告げて言った。──アラム語で──『王よ。永遠に生きられますように。どうぞその夢をしもべたちにお話しください。そうすれば、私たちはその解き明かしをいたしましょう。』2:5 王は答えてカルデヤ人たちに言った。『私の言うことにまちがいはない。もし、あなたがたがその夢とその解き明かしとを私に知らせることができなければ、あなたがたの手足を切り離させ、あなたがたの家を滅ぼしてごみの山とさせる。2:6 しかし、もし夢と解き明かしとを知らせたら、贈り物と報酬と大きな光栄とを私から受けよう。だから、夢と解き明かしとを私に知らせよ。』」
そうです!人がどんな夢を見たか、心の中の考えなどをその通り言うことの出来る人などいない。なので、呪法者、呪文者、呪術者など、バビロンの知者とされていた人たち、またバビロンの人たちだけではなく、ダニエルたちも皆、滅ぼされることになった。
V12~V13:「王は怒り、大いにたけり狂い、バビロンの知者をすべて滅ぼせと命じた。2:13 この命令が発せられたので、知者たちは殺されることになった。また人々はダニエルとその同僚をも捜して殺そうとした。」
それでダニエルは、そのような厳しい命令が王から出た訳を知り、彼は王の前に出て、その夢とその解き明かしを告げるために暫くの時間をくれるように王に願い出た。どうしてダニエルの願いが聞かれたのか、それは、ダニエル1:20に記されていたように、彼らは他のバビロンのどんな呪法師や呪文師よりも10倍も賢いということが分かっていたからかもしれない。それからダニエルは、他の三人の所に行って事の次第を伝え、彼らは、Ⅴ18:「彼らはこの秘密について、天の神のあわれみを請い、ダニエルとその同僚が他のバビロンの知者たちとともに滅ぼされることのないようにと願った。」と言う。
※ここに、今日のメッセージのポイントがある。
【本論】
(1)この世の知者、権力者が持っている知恵、権力の限界
この世にどんな知恵のある人がいても、どんな権力のある人がいても、その知恵、その権力には限界がある。奇しくもあの呪法者たちが言ったように。
ダニエル2:10~11:「カルデヤ人たちは王の前に答えて言った。「この地上には、王の言われることを示すことのできる者はひとりもありません。どんな偉大な権力のある王でも、このようなことを呪法師や呪文師、あるいはカルデヤ人に尋ねたことはかつてありません。2:11 王のお尋ねになることは、むずかしいことです。肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それを王の前に示すことのできる者はいません。」
彼らの神理解は少し間違ってはいるが、神は全知全能なる神であるということにおいては、私たちと同じ神理解をしていたようで、そのように、全知全能なる神以外には、人の見た夢、人の心の中のことを言い当てる人などいないということです。逆を言うなら、人の知恵には限界があるということである。それにも拘わらず、私たちは自分の知恵や力を誇る者なのです。なので、パウロは次のように言った。
Ⅰコリント1:19~20:「それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」
その理由は、
Ⅰコリント1:29:「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」
※そうです!私たちの知恵、力には限界がある。先ず、そのことを知ろう。
(2)しかし、神には出来るということ
これも、奇しくも呪法者たちの語った言葉の中にあった。
ダニエル2:10~11:「カルデヤ人たちは王の前に答えて言った。「この地上には、王の言われることを示すことのできる者はひとりもありません。どんな偉大な権力のある王でも、このようなことを呪法師や呪文師、あるいはカルデヤ人に尋ねたことはかつてありません。2:11 王のお尋ねになることは、むずかしいことです。肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それを王の前に示すことのできる者はいません。」
※神以外には、そのように人に出来ないことをすることの出来る存在は、この世にはいないということ。ここまでは、このバビロンの知者たちが考えていたように、そして、そのことを口に出していたように誰もが考えることである。誰もが疑うことはないだろう。しかし問題は、それを知っているか知っていないかではなく、その神を信じるか信じないか、そのような神を神として認めるか認めないかということである。それが第3のポイントです。
(3)その神を信じるかどうか。その神を信じること。
重要なことは、その神には出来ると信じ、その神に願い求めること。信仰が重要なのである。その信仰はバビロンの知者たちにはなかったが、ダニエルたちにはあった。
V17~V18:「それから、ダニエルは自分の家に帰り、彼の同僚のハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤにこのことを知らせた。2:18 彼らはこの秘密について、天の神のあわれみを請い、ダニエルとその同僚が他のバビロンの知者たちとともに滅ぼされることのないようにと願った。」
ダニエルたちは、ネブカデネザルが見た夢を知るために、神にあわれみを請い、それを知らせてもらい、それを王に教えることを通して、自分たちもバビロンの知者たちと一緒に滅ぼされることがないようにと「願った」=「祈った」のである。
※これが、彼らバビロンの知者と、ダニエルたちとの違いであった。ダニエルたちは彼らの神を信じる信仰者として、神に祈り願ったのである。これが決定的な違いであった。どんなに知恵や力があっても、神を知らない、神に対する信仰のない者と、たとえ知恵や力がなくても、神を知っている者、神に対する信仰のある者との違いである。
先ほどⅠコリントのみことばを引用したが、そのみことばに続いて記されているみことばに目を留めてみよう。パウロはそこで何と言っているか!―パウロはそこで、明確に、「知っている」ということ、つまり知恵と、「信じる」ということ、つまり信仰との違いについて語っている。今日の箇所で言うなら、権力者であるネブカデネザル王や知恵ある者とされていたバビロンの呪法者、呪文者、呪術者、知者たちと、ダニエルたちとの違いである。
Ⅰコリント1:21:「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」
※「信じる者を救おうと定められた。」それも「宣教のことば(V18:十字架のことば)の愚かさを通して」を通して、信じる者を救おうとされた。これが、私たちに与えられている信仰であり、その信仰による救いです。
【結論】
私たちはこの世にあって、この世のことに関して「愚かであって良い。」とか「無知であって良い。」とかではない。愚かであるよりも賢い方がよい。無知であるよりも、知恵・知識があった方が良い。しかし、霊的なこと、神との関係おいて一番重要なこと、無くてはならないことは、「知恵がある、賢さがある」ということ以上に、「信仰があるかどうか」なのである。たとえ何も分からない愚かな者であっても、神に対する信仰があるのなら、その人は救われるのである。でなければ、この世の知恵や力では、空しい、愚かしい、無力に見える十字架を信じることは出来ない。それは神によって与えられるもの、神の力、神の知恵なのです。そのような信仰がさらに与えられるよう、増し加えられるように、私たちの心の目がさらに開かれて行くように、「権力によらず、能力によらず」、私たちの信仰が神の霊によって与えられ、増し加えられ、持つことが出来るように、働くことが出来るように祈ろう!ハレルヤ!
―祈り―
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