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2023.3.19 礼拝メッセージ:金子辰己雄師

【前置】

 先週木曜の牧師会での話。各教会の報告に共通して出て来ることは少子高齢化のこと。昨年の出生率が80万を切るということで、先週金曜、岸田首相も、重要課題として少子化対策のための基本方針を発表したが、教会も同様。教会幼稚園や教会学校の維持がますます困難になっている。そして、前に2030年問題に触れたが、あと7年経つと、日本の教会の牧師の数が半減し、教会も半数が立ち行かない状態になるという。確かに、耳に入って来る各地の神学校や、神学部のある大学への入学者数が年々減ってきているということを聞いている。それも新卒の入学者は少なく、多くが大卒や、社会からリターンして来る中年の人や、会社を満期退職して入学してくる高齢者だと言う。聞いているだけで、何となく、先行き暗いと感じられるが、一つのみことばが私の頭に上った。

使徒2:17:「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」

 これは、ペテロがヨエル2:28~29の預言を引用し、ペンテコステの日に起きた出来事を弁証した時の言葉。預言の言葉です。その中にはっきりと、「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」とある。「夢を見る」というのは、文字通りの「夢を見る」ということでなく、神の言葉を見て、語るということ。ヤコブやヨセフ、旧約聖書中の預言者が夢を通して神から語られたように、また、ペテロがヨッパにいる時に夢を通して教えられたように、預言者は夢を通して神から預言をもらう。直接言葉としてもらう時もあれば、幻を通して、夢を通してもらうことがある。だから少子高齢化で、教会の中に高齢者が多いということは、まさに預言の成就の備えではないか。ペンテコステ神学で言うならば、2,000年前のペンテコステの出来事は、ヨエル2:23にある「初めの雨」(秋の雨、イスラエルで10月~11月に雨が降る雨で、それにより種蒔きの準備が出来ること)それは、教会の誕生を意味する。そして、福音宣教が開始され、後の雨(春の雨、3月~4月)によって豊かな収穫がもたらされるように、終末の霊的大収穫の時にも雨が降る、聖霊の注ぎがあるということ。今がその時。なので、今教会に高齢者が多く居るというのは悲観材料ではなく、大収穫という終末預言の成就の準備であると考えることが出来るのではないか。だとするなら、私たちはより一層神の霊が注がられるように祈らなければならない!

※祈りは、何かを神にしてもらうためのものだけではなく、何かを私たちがするためのものでもある。今、神は私たちにそれを求めているのではないか!だから、終末の後の雨が降るように、神の霊がさらに豊かに注がれるように祈ろう!

 さて、前置が長くなったが今日のメッセージに入る。今日のメッセージは、今月の金子千伊子姉宅で行った家庭集会の中で語られたメッセージを元に、今日は二つの教会の合同礼拝なので、それに相応しく、神が私たちに語ろうとしていることについて、みことばを取り次ごうと思う。

【本論】

 この箇所は3つの部分に分かれる。

(1)V1~V3:「神との関係」における、「今の私たちの立場」と「今の私たちの務め、働き」について

 今の私たちの立場とは、V1~V2a:「私たちが神の子どもと呼ばれるために、──事実、いま私たちは神の子どもです。──御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。」とあるように、今、私たちは神の子どもであるということ。そのために、神は私たちに素晴らしい愛を与えて下さった。つまり、御子であるイエス・キリストを、私たちのために送って下さったということです。

V2b:「後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」

 「後の状態」、つまりイエス様が再臨される時、私たちが実際にどのような状態であるかは分からないが、主の再臨、キリストが現れる時、私たちはイエス様の姿に限りなく似た者として変えられて行くことは分かっている。そのような日が一日も早く来ることを待ち望みたい。

V3:「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」

 ここに第一のポイントである「神との関係」における「今の私たちの務め、働き」が示されている。それは、「キリストが清くあられるように、自分を清くします。」ということ。つまり、キリストが罪のない清い者であるように、私たちも清い者でなければならないということ。罪を犯してはならないということ。しかし、私たちは罪を犯す者だから、ヨハネはⅠヨハネ1:9で、次のように言うのです。

Ⅰヨハネ1:9:「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

※神の前で、いつも清い者であろう!

(2)V4~V6:「罪との関係」における、「今の、私たちのこの世における立場と働き、務め」について

V4~V6:「罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。」

 キリストが私たちの罪を取り除くために来られたので、キリストを信じる者、また「だれでもキリストのうちにとどまる者は」罪が取り除かれて罪を犯すことがない者になったということ。ここでの「罪」というのは、「罪とは律法に逆らうことなのです。」とあるように、「逆らうかのように、故意に、習慣的に行う罪」のこと。だから、キリストを信じる者は、「だれでもキリストのうちにとどまる者は」そのような罪は犯すことはない。しかしそうでない者、キリストを信じない者は、神に逆らうかのように、故意に、習慣的に罪を犯す。確かにそう。かつての私たちもそうだった。しかし今は、キリストを信じる信仰によって罪が赦されたことを感謝しよう!

(3)V7~V12:「義との関係」における、「私たちのこの世における立場と務め」について

V7~V12:「子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。」

 先ず、「義との関係」における「私たちのこの世における立場」の「義」とは、「罪が赦された」という意味の「義」=「justified」ではなく、「righteous」=「神の御心に対して正しい、つまり、みこころに適っている状態」と言う意味の「義」。だから、Ⅴ7:「義を行う者、正しいことを行なう者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。」と言う。しかし、Ⅴ8:「罪」これは、「不正」とか「悪いこと」とかいうことだが、「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。」=罪を犯している者は「悪魔から出た=悪魔によって造られた者」ということではなく、悪魔の性質を帯びているということ。

 そして、「義との関係」における、「私たちのこの世における働き、務め」とは、V8c:「神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」

 「悪魔のしわざを打ちこわすこと」です。これが、「義との関係」における、「私たちのこの世における働き、務め」です。「打ちこわす」というのは、英語で言うと、「undo」=「やったことを消去する」。パソコンで言う「削除」、

「消去」のこと。サタンはこの世に罪をもたらし、罪で汚染させてしまった。しかし、神の子であるイエス様が来られたのは、それを雪のように白くするためだった。そして、この「神の子」というのは、イエス様のことだけではなく、初めに、「私たちは神の子である。」ということを見たように、私たちも神の子としてそれを行なうのです。それが私たちの働き、務めです。

 ではどのようにして、

V9:「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」

 罪を犯さない(罪のうちを歩まない)ことによって、それ以上に、神のみこころを行なうことによってです。そして、

V10~V11:「そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。」

 互いに愛し合うということによってです。

※ここで私たちは、その働きのモデルを聖書の中に見たいと思う。

使徒4:29~35:「『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。』彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。」

 美しの門で起きた出来事の後に、ペテロやヨハネが受けたサンヘドリンに属する人々からの脅かしに対する祈りから始まった彼らの働きが記されている。それは、

①神のみこころを行うための祈り。そして、大胆にみことばを語り、しるし、不思議を行なう。そして、②互いに愛し合うこと。終わりの時代になると、「不法が蔓延るので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」(マタイ24:12)とあるが、彼らはそうではなかった。

※この二つの働き、務めが「悪魔のしわざをうちこわす働き」です。悪魔のわざは、私たちを恐れによって黙らせ、何もさせないこと。そして、私たちを孤立させ、お互いに無関心にさせて、互いに愛し合わせないようにする。

※だから、私たちは惑わされないで、この世の終わりだからこそ、ますます神の御計画=終末の大収穫の実現のために祈ろう。出て行って、みわざをなそう。愛し合って、悪魔のしわざを打ち砕いて行こう。

―祈り―


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