【序論】
メッセージタイトルにもあるように、この箇所は、ダニエル書の序に当たる部分で、このダニエル書を記したダニエルと、彼の仲間である3人のユダヤ人、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤたちの登場が記されているところ。
Ⅴ1~V3:「ユダの王エホヤキムの治世の第三年に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムに来て、これを包囲した。主がユダの王エホヤキムと神の宮の器具の一部とを彼の手に渡されたので、彼はそれをシヌアルの地にある彼の神の宮に持ち帰り、その器具を彼の神の宝物倉に納めた。王は宦官の長アシュペナズに命じて、イスラエル人の中から、王族か貴族を数人選んで連れて来させた。」
とあるように、彼らはユダの王エホヤキムの治世の第三年、BC605年に、バビロンの王ネブカデネザルによってエルサレムが侵略され、神殿から礼拝器具の一部が持ち去られたのと同時に、王族や貴族の中から何人かがバビロンに連れて来られた。一般的には第一次バビロン捕囚は、この後のエホヤキン王の時のBC597年だと言われているが、ある学者はこのように、一部の人たちがバビロンに連れて来られたので、この時が第一次捕囚だと言う人もいる。いずれにしても、この時、その王族、つまりユダ部族の中から、「彼らのうちには、ユダ部族のダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤがいた。」(V6)とあるように、ダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤという少年たち、この時彼らは13、4歳頃だと言われているが、彼らもその中に数えられて連れて来られたのである。ここに、今日のメッセージのタイトルにあるように、ダニエルたちの登場のことが記されている。
今日はこの箇所から、彼らの登場が、彼ら自身にとって、またこの時の世界、バビロニア帝国にとって、そして、今日の私たちにとってどんな意味があるか、彼らの登場が私たちに何を教えてくれるのか、今日はそのことに目を留めて行きたい。
【本論】
先ず、Ⅴ4に、彼らがどんな少年たちであったのかが記されている。
V4:「その少年たちは、身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者であった。」
どこの国でも、どの時代でも、その国の持っている芸能や芸術、文化や技術などは、伝統として後世の世代に残して行くものである。バビロン人たち、カルデヤ人たちもそうであった。この時、ネブカデネザルはそのために自分たちの国の民の中から、何人かは分からないが、それに相応しい者たちを選んだが(V13:「…、王さまの食べるごちそうを食べている少年たちの顔色とを見比べて、…。」)捕囚として連れて来たイスラエル人の中からも、その者たちを選んだ。
今日私たちは、ユダヤ人たちは他の民族の人たちと比べるといろいろな面で優れていることを知っている。ノーベル賞受賞者のうち22%の人がユダヤ人であることや、音楽や美術などの芸術において、自然科学や医学などの学問において、また映画や舞台芸術などのエンタテイメントなど、色々な分野において、沢山の優れた人たちがいる。またこの時から約400年ほど遡ったイスラエルには、当時、他の誰とも比べることが出来ないほど、知恵に満ちた人物がイスラエルの国に現れた。ソロモンである。
Ⅰ列王4:29~30:「神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心とを与えられた。それでソロモンの知恵は、東のすべての人々の知恵と、エジプト人のすべての知恵とにまさっていた。」
それで、シェバの女王がソロモンを訪問した時、その知恵の豊かさに驚いて、次のように言ったほどであった。
Ⅰ列王10:6~7:「彼女は王に言った。『私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。』」
同じユダヤ人であったダニエルたちもそのようであったようである。しかしそれ以上に、彼らが他の誰とも違って優れていたところは、この世の知恵や能力、その豊かさという点ではなく、神との関係、つまり、「自分は神との関係の中で、いかなる者であるか」というアイデンティティーの持ち方が全く違っていた点であった。
V8~V13:「ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。神は宦官の長に、ダニエルを愛しいつくしむ心を与えられた。宦官の長はダニエルに言った。『私は、あなたがたの食べ物と飲み物とを定めた王さまを恐れている。もし王さまが、あなたがたの顔に、あなたがたと同年輩の少年より元気がないのを見たなら、王さまはきっと私を罰するだろう。』そこで、ダニエルは、宦官の長がダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤのために任命した世話役に言った。『どうか十日間、しもべたちをためしてください。私たちに野菜を与えて食べさせ、水を与えて飲ませてください。そのようにして、私たちの顔色と、王さまの食べるごちそうを食べている少年たちの顔色とを見比べて、あなたの見るところに従ってこのしもべたちを扱ってください。』」
ネブカデネザルは、「王は、王の食べるごちそうと王の飲むぶどう酒から、毎日の分を彼らに割り当て、三年間、彼らを養育することにし、そのあとで彼らが王に仕えるようにした。」(V5)とあるように、バビロンの食べ物、飲み物によって養い、宮廷に仕える者として、またカルデヤの伝統を守り教える者として教育しようとした。
しかし彼らは、イスラエルの神を信じる信仰により、異邦人であるバビロンの人が食べる食べ物、それが王の食べる食物であっても、モーセの律法によって禁じられている食べ物は食べることが出来ないと言ったのである。ここに先ず、私たちが、私たちも神を信じる信仰者として見習わなければならない大切な点がある。
彼らはエルサレムから遠く離れ、異邦の神を信じる人々の中にいても、イスラエルの神から離れてはいなかったのである。彼らの神を礼拝するための神殿はなかったが、彼らは神殿を持って神を礼拝し、神を第一にする生活を送っていたのである。その神殿は、彼らの心の中にあったのである。
※これが先ず、異邦の民の中で暮らしている私たちに対する信仰者としてのチャレンジであり、大切な点。―私たちは、私たちの心の中に、神との関係の中で、神殿を持っているだろうか!―私たちはどこにあっても、何をしていても、神との関係において、私たちの心の中に神の神殿を持つことは大切である。何故なら、
Ⅰコリント6:19~20:「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」
ヨハネ4:21~23:「イエスは彼女に言われた。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。』」と言うからである。
私たちの神を信じる信仰において、神との関係において大切なことは、目に見える宮で何をするかではない。目に見えない所である私たちの心の中で、神との関係の中で、何を大切にして神に仕えるのかなのである。
次に、ここで私たちが学ばなければならないことは、私たちの霊の糧として、神との関係の信仰の霊の糧として、何を食さなければならないか?ということである。
宦官の長アシュペナズは、ダニエルたちに、王の与えようとしている食物を与えようとした。そうしなければ、もし、王の与える食物を食べなかったために、ダニエルたちが他の少年たちよりも元気がないのをみたなら、自分が王から罰せられると考えたからである。しかし、それでもダニエルは、それを食べようとせず、「野菜と水だけを与えてください。」と言った。そうして「10日後、他の少年たちと比べてみて、その見えるところに従って、自分たちを扱ってください。」と言ったのです。
これは何を意味するか?―これは、私たちの霊の糧の食べ物は「この世の食べ物ではない」ということ、そうではなく、私たちの霊の糧は「神の口から出る神の言葉」、そして「神との交わり」が何よりも必要なものであるということを教えている。
マタイ4:4:「イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」とある通りである。
また、私たちはしばしば断食をするように言われる。その理由は、「食物を断つ」という意味の断食そのものにあるのではなく、「食物を断つ、この世の物を断つ」ということを通して、「神との交わりと持つ」ということなのである。実は、それが断食の本質的なことである。
そのようにして、ダニエルたちは10日を過ごし、そして他の少年たちを見比べる時が来た。
V15~V16:「十日の終わりになると、彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、からだも肥えていた。そこで世話役は、彼らの食べるはずだったごちそうと、飲むはずだったぶどう酒とを取りやめて、彼らに野菜を与えることにした。」それだけではなく、
V17:「神はこの四人の少年に、知識と、あらゆる文学を悟る力と知恵を与えられた。ダニエルは、すべての幻と夢とを解くことができた。」
彼らは神から特別に知恵と力が与えられ、ダニエルにはさらに幻と夢を解く力、預言の霊が注がれた。そして、彼らはネブカデネザル王の前に連れて来られた。すると、
V18~V20:「彼らを召し入れるために王が命じておいた日数の終わりになって、宦官の長は彼らをネブカデネザルの前に連れて来た。王が彼らと話してみると、みなのうちでだれもダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤに並ぶ者はなかった。そこで彼らは王に仕えることになった。王が彼らに尋ねてみると、知恵と悟りのあらゆる面で、彼らは国中のどんな呪法師、呪文師よりも十倍もまさっているということがわかった。」
彼らが非常に優れていることが分かった。それは彼らが、神との関係において、神を第一にして、神に忠実に従い、恐れることなく、神に聞き従っていたからである。
【結論】
私たちも、ダニエルたちと同じように、異邦の神々を信じる者たちの中にいる。そして私たちにも、ダニエルたち同様、他の多くのユダヤ人たちが神を礼拝している神殿があるわけではない。しかし、私たちの中には神が宿っている。神の神殿が私たちの中に造られている。それは神様が私たちの中に造って下さったもの、与えて下さったものである。だから、このお方を第一にして行こう。このお方をあがめよう。
―祈り―
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